浪士組との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 06:23 UTC 版)
文久2年12月9日(1863年1月28日)、講武所剣術教授方兼任のまま、浪士取扱に任命され、寄合席となり300俵を給付される。翌文久3年(1863年)正月14日には剣術師範役並に昇進し、諸大夫(五位)上総介に任ぜられて80人扶持となった。この浪士取扱とは、庄内藩の郷士清河八郎の献策により、14代将軍・徳川家茂の230年ぶりの上洛に伴い、治安が乱れる京都の警備を担当させるために浪人を集めて浪士組を結成しようとした企画の責任者である。しかし、何らかの理由により同月26日に浪士取扱を辞職し、鵜殿長説(鳩翁)に交代した。結局、清河らの策略によりこの浪士組は京都で尊王攘夷の先鋒となることを宣言して江戸へ帰還(このときの脱退者が後に新選組となる)。その後4月13日に江戸で清河が幕臣の佐々木只三郎らに暗殺されると、翌4月14日松平忠敏は浪士取扱に復帰した。浪士たちは改めて新徴組として組織されることになり、同月21日忠敏は新徴組支配を命じられる。しかしこれも同年11月22日に辞任した。
※この「浪士組との関わり」の解説は、「松平忠敏」の解説の一部です。
「浪士組との関わり」を含む「松平忠敏」の記事については、「松平忠敏」の概要を参照ください。
- 浪士組との関わりのページへのリンク