浪士組への参加から殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:32 UTC 版)
「祐天仙之助」の記事における「浪士組への参加から殺害」の解説
文久元年(1861年)に甲斐では黒駒勝蔵と国分三蔵の抗争が繰り広げられており、この状況の中、同年6月に祐天仙之助は甲斐から逃亡する。「乍恐以書付御訴訟奉申上候(勇天他1名の悪党逃散一件)」(個人蔵)によれば祐天仙之助は甲斐から逃亡する際に、関所にあたる上小田原村(甲州市塩山上小田原)の柳屋に押し入った。同文書には「酉6月11日」の日付が記されており、祐天の年齢を「凡四十才位」としている。後述する諸説ある祐天の没年は『藤岡屋日記』では40歳としてなる。また、祐天をめぐる社会状況の観点からも、「酉」の示す文書の年代は文久元年に推定されている。 文久3年(1863年)正月、江戸では旗本の松平忠敏と尊皇攘夷派の浪士・清河八郎が幕府に献策され、浪士組の募集が行われる。祐天は子分である内田佐太郎(菱山佐太郎)、若林宗兵衛、石原新作、千野栄太郎、大森濱治らを引き連れこれに加わり入隊し、五番隊小頭に任命される。姓を山本と称した。またこの時、同じ浪士組に桑原来助の息子・大村達尾が六番隊に所属していた。 浪士組は同年2月23日に京都へ到着するが、清河は浪士組の目的は朝廷のため尊皇攘夷を実行することであると演説すると、江戸帰還を主張した。浪士組では六番隊小頭の近藤勇と芹沢鴨らが京都残留を主張し分派し、京都残留派は後に新選組となる。祐天は清河に従い江戸へ帰還するが、清河は同年4月13日に江戸で幕臣の佐々木只三郎らに殺害され、清河派の幕臣らも罰せられた。清河派の浪士は松平忠敏を指導者に新徴組を結成して江戸市中の取り締まりにあたり、祐天もこれに加わる。 一方、大村達尾も清河派に属し新徴組に所属していたため、そのうち父の仇であるということが発覚する。同年10月15日朝方、祐天は北千住一丁目の遊廓「広瀬屋」から出てきたところを、大村とその友人で新徴組隊士の藤林鬼一郎らによって斬殺された。異説として祐天が殺害された場所を広瀬屋ではなく、「水油屋渡世・利根川屋」とする説もある。享年は『藤岡屋日記』に40とする説のほか44、42、45とする説もある。「伊豆国韮山江川家文書」では文久3年(1863年)時点で35歳であったとし、これによれば45となることが指摘される。 墓所は東京都墨田区太平の陽運院で、文久3年(1863)10月の年記と戒名「本哲院宗勇智山居士」が刻まれている。
※この「浪士組への参加から殺害」の解説は、「祐天仙之助」の解説の一部です。
「浪士組への参加から殺害」を含む「祐天仙之助」の記事については、「祐天仙之助」の概要を参照ください。
- 浪士組への参加から殺害のページへのリンク