清河八郎暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:20 UTC 版)
近藤・芹沢たちが鵜殿鳩翁に京都残留を願い出ると、清河八郎暗殺が命じられた。永倉の手記によると、老中の板倉勝静の内意だったらしい。 左之助は近藤、土方、沖田、永倉、井上と共に仏光通り堀川で待ち伏せた。清河が前土佐藩主・山内容堂の元を訪れた帰途を狙ったのである。しかし清河は左之助たちが待ち伏せていた道を通らず、芹沢、新見、山南、平山、藤堂、野口、平間が待ち伏せていた四条通堀川を通った。しかし芹沢たちは清河が幕府の朱印状を携帯している山岡鉄太郎を連れていたので襲撃を取りやめ、清河の殺害計画は失敗に終わった。 その後、近藤・芹沢グループは近藤たちの分宿先であった八木家の離れ座敷をそのまま使用することになった。離れ屋敷は10人で寝起きするには狭く、母屋から50メートルも離れた畑の一角にあり、夜は明かりも差さなかったという。そんな離れ座敷を見て左之助は、「こんな小っぽけな離れ家では、寝ているうちにずぶりと槍を突き通して、担いで行かれてもわからん、安心して眠れん。」と笑いながら口にした。
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