京都法政学校への継承とは? わかりやすく解説

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京都法政学校への継承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 08:51 UTC 版)

私塾立命館」の記事における「京都法政学校への継承」の解説

西園寺文部大臣秘書官として京都帝国大学創設中心に関わった中川小十郎は、大学創設実務一段落する官界去り経済界に身を移した。しかし、京都帝国大学制度旧制高等学校卒業生しか受け入れることができず、西園寺公望提唱した能力意欲のある人に国として(教育の)機会与えるべき」という教育理念からもかけ離れている実態限界感じ、自ら私学興すことを思い立つ中川政財界主要人物学界人脈から後援を得るとともに西園寺公望実弟末弘威麿らの協力得て上京区東三本木通にあった料亭清輝楼(旧・吉田屋)」を間借りして3年制夜間学校設立した。これが「京都法政学校」である。京都法政学校は、西園寺公望教育への理想体現する形で設置進んだ京都帝国大学補完的役割を担うという名目設置された。事実講義のほぼ全て京都帝国大学教授により行われていたほか、京都法政学校母体にのちに設立される財団法人立命館」の寄付行為には、財団解散時には所有財産全て京都帝国大学寄付されることなどが明記されていた。 京都法政学校はその校名が示すとおり、当初法律科と政治科との2学科を置くのみであった。しかし、ゆくゆくは医学科文学科などを置いて総合学園とすることを視野入れており、京都法政学校という名称が実体反映するものでなかった(詳細は「京都法政学校」を参照)。1904年明治37年)には大学部経済科が設置され教学内容法政学校としての域を越えると、実体体現する新たな名称が必要になった。そこで西園寺公望京都帝国大学設立託した政治権力から一線を画しリベラルアカデミックな学風という理念源流にある「私塾立命館」の名称の継承申し出西園寺がこれを快諾した。このとき西園寺は「立命館」の大書75文字のゆかりを付記した扁額を、自らしたため寄贈した立命館 - 往年余興一校 名曰立命館 及余学泰西 校廃名存 頃者京都法政大学学員来 請襲用其名 余喜名乃得実 乃書遍額以与之 孟子曰妖寿不貳 修身以俟之 所以立命学問乃要在于比矣 明治三十八年四月 侯爵 西園寺公望往年、余は一校興し名づけ立命館という。泰西遊学する及んで、校廃し名存す。この頃京都法政学校学員来り、その名を襲用することを請う。余は名の実を得ることを喜び、すなわち扁額書してもってこれを与う孟子いわく、殀寿貳わず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なりと。蓋し学問要はここに在り。) 1905年明治5年)、西園寺公望から「私塾立命館」の名称の継承許された「京都法政学校」は、1913年大正2年)に「財団法人立命館」を設置するとともに大学名を「私立立命館大学」、中学校名を「私立立命館中学校」と改称した西園寺公人として特定の私学肩入れすることをよしとしなかったが、最後まで立命館学園発展有形無形支援続けた

※この「京都法政学校への継承」の解説は、「私塾立命館」の解説の一部です。
「京都法政学校への継承」を含む「私塾立命館」の記事については、「私塾立命館」の概要を参照ください。

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