京都法政学校への継承
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西園寺文部大臣秘書官として京都帝国大学創設の中心に関わった中川小十郎は、大学創設実務が一段落すると官界を去り、経済界に身を移した。しかし、京都帝国大学が制度上旧制高等学校卒業生しか受け入れることができず、西園寺公望が提唱した「能力と意欲のある人に国として(教育の)機会を与えるべき」という教育理念からもかけ離れている実態に限界を感じ、自ら私学を興すことを思い立つ。中川は政財界の主要人物や学界人脈から後援を得るとともに、西園寺公望の実弟・末弘威麿らの協力を得て、上京区東三本木通にあった料亭「清輝楼(旧・吉田屋)」を間借りして3年制の夜間学校を設立した。これが「京都法政学校」である。京都法政学校は、西園寺公望の教育への理想を体現する形で設置が進んだ京都帝国大学の補完的役割を担うという名目で設置された。事実、講義のほぼ全てが京都帝国大学教授により行われていたほか、京都法政学校を母体にのちに設立される「財団法人立命館」の寄付行為には、財団解散時には所有財産の全てが京都帝国大学に寄付されることなどが明記されていた。 京都法政学校はその校名が示すとおり、当初は法律科と政治科との2学科を置くのみであった。しかし、ゆくゆくは医学科・文学科などを置いて総合学園とすることを視野に入れており、京都法政学校という名称が実体を反映するものでなかった(詳細は「京都法政学校」を参照)。1904年(明治37年)には大学部に経済科が設置され、教学内容が法政学校としての域を越えると、実体を体現する新たな名称が必要になった。そこで西園寺公望が京都帝国大学設立に託した、政治権力から一線を画したリベラルでアカデミックな学風という理念の源流にある「私塾立命館」の名称の継承を申し出、西園寺がこれを快諾した。このとき西園寺は「立命館」の大書に75文字のゆかりを付記した扁額を、自らしたためて寄贈した。 立命館 - 往年余興一校 名曰立命館 及余学泰西 校廃名存 頃者京都法政大学学員来 請襲用其名 余喜名乃得実 乃書遍額以与之 孟子曰妖寿不貳 修身以俟之 所以立命也 蓋学問乃要在于比矣 明治三十八年四月 侯爵 西園寺公望(往年、余は一校を興し名づけて立命館という。泰西に遊学するに及んで、校廃し名存す。この頃京都法政学校学員来り、その名を襲用することを請う。余は名の実を得ることを喜び、すなわち扁額を書してもってこれを与う。孟子いわく、殀寿貳わず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なりと。蓋し学問の要はここに在り。) 1905年(明治5年)、西園寺公望から「私塾立命館」の名称の継承を許された「京都法政学校」は、1913年(大正2年)に「財団法人立命館」を設置するとともに、大学名を「私立立命館大学」、中学校名を「私立立命館中学校」と改称した。西園寺は公人として特定の私学に肩入れすることをよしとしなかったが、最後まで立命館学園の発展に有形無形の支援を続けた。
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