京都法政学校設立の構想と経緯とは? わかりやすく解説

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京都法政学校設立の構想と経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:00 UTC 版)

京都法政学校」の記事における「京都法政学校設立の構想と経緯」の解説

1894年明治27年)、文部大臣就任した西園寺公望が「高等教育拡張計画」を立案第一項に、東京帝国大学と相呼応して国家需要応じられる高等教育機関京都にも設置することの必要性挙げた。これに基づいて省内に設置した京都帝国大学創立準備委員」が1897年明治30年)「京都帝国大学ニ関スル件」(大学設置令)を公布し京大創設流れ固まった当時文部省専門学務局勤務から文部大臣秘書官として西園寺文部大臣直属となった中川小十郎が、京都帝国大学初代事務局長任命され大学業務総括京都帝国大学初代総長就任した木下廣次とともに大学創設中心的役割を担うことになった京都帝国大学創設事業区切りがついた1898年明治31年)、中川小十郎文部省参事官の職を辞し実業界へ転身加島銀行理事への就任皮切りに株式会社大阪堂島米穀取引所監査役朝日生命保険株式会社現在の大同生命保険副社長就任するなど経済人として活躍した。しかし、自らが創設中心に関わった京都帝国大学制度旧制高等学校卒業生しか受け入れることができず、西園寺公望提唱した能力意欲のある人に国として(教育の)機会与えるべき」という教育理念からもかけ離れている実態限界感じ、自ら私学興すことを思い立つ翌年教学面での協力京都帝国大学教授だった織田萬井上密岡松参太郎らから得るとともに学校設立事務については、西田由(朝日生命株式会社 専務取締役)、橋本篤(大同生命保険株式会社 初代支配人)、山下好直京都府議会議員)、河原一郎東洋レーヨン 常務取締役)、羽室亀太郎京津電気軌道 支配人)らの協力得て、また設立賛助員として京都政財界大物内貴甚三郎浜岡光哲田中源太郎中村栄助雨森菊太郎高木文平河原林義雄)の力を借り京都法政学校設立事務所朝日生命保険株式会社一角設置した1900年明治33年5月4日京都府知事対し私立京都法政学校設立認可申請書」を提出同年5月19日晴れて設置認可され、同6月5日開校式典開いている。初代校長には、民法起草者の一人東京帝国大学教授富井政章就任した富井1927年昭和2年8月31日まで京都法政学校長、私立立命館大学長の任にあたった

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