京都洋画壇の先駆け
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明治5年から毎年開かれた京都博覧会に時に出品し、第11回展では「田村宗立油絵展」を開く。明治9年(1876年)ランゲックの帰国に伴い退職。明治10年第1回内国勧業博覧会にも油彩画「下加茂図」出品し褒状を受ける。また、明治12年(1879年)東山雙林寺の洋画展覧会に出品するなどで、洋画家としての活躍が知られるようになっていく。明治13年(1880年)京都府画学校創立にたずさわり、翌年小山三造の後継として、学校内の教科の一つ西宗(西洋画科)の二代目教員に任命される。9年半足らずの在職中、原撫松、伊藤快彦、田中九衛、小笠原豊涯らを育てた。この頃、宗立には何人かの門人がおり、吉田博の義父・吉田嘉三郎もこの頃の弟子である。当時の京都は日本画家も洋画を描くほどブームとなっており、宗立の描く油絵は日本画より格段に売値が高く、宗立の教室には生徒がひしめいたという。
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