吉田嘉三郎とは? わかりやすく解説

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吉田嘉三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/21 06:27 UTC 版)

吉田 嘉三郎(よしだ かさぶろう、1861年 - 1894年9月6日[1])は、日本洋画家、教育者。

経歴

豊前国下毛郡(現・大分県中津市)で、代々中津藩御用絵師を務めた晴野家に生まれる。幼少の頃より日本画を学び、中津市学校卒業後、1877年に京都田村宗立が主宰する明治画学館に入門。

1881年第2回内国勧業博覧会に大分県を代表する洋画家として出品し、同年帰郷して母校中津市学校の助教諭となる。これと時期を前後して吉田家の養子となる[1]。1882年第1回内国絵画共進会、1884年第2回内国絵画共進会に出品[2]

中津市学校廃止により、1886年上京し、本多錦吉郎の西洋画塾彰技堂に入門するが、同年9月福岡県尋常師範学校の助教諭に着任[1]。翌1887年5月[2](1889年3月との記載もあり[3]福岡県立尋常中学修猷館の美術の助教諭に着任(1892年8月まで勤務)。1891年同校の教え子であった上田博を養子に迎える(吉田博となる)[1]

代表作に『海魚図』(油彩)、『婦人図』(油彩)(ともに制作年不明)。著書に『新定習画帖』(吉岡宝文軒、1888年)、『大成習画帖』(吉岡宝文軒、1889年)などの教科書がある[1]

妻るいとの間に、一男(正男)四女(伊和、美智、ふじを、あぐり)があり、後に三女ふじおが吉田博と結婚し女流画家となる。1894年に33歳で死去[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f 『The Yoshida family展:世界をめぐる吉田家4代の画家たち』(カタログ)(三鷹市芸術文化振興財団、2009年)27-29頁
  2. ^ a b 『The Yoshida family展:世界をめぐる吉田家4代の画家たち』(カタログ)(三鷹市芸術文化振興財団、2009年)吉田家略年譜 138頁
  3. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館225年記念』(修猷館同窓会、2010年)全日制旧職員16頁



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