自明
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自明(じめい、天明4年(1784年) - 文政9年11月12日(1826年12月10日))は、江戸時代後期の俳人。姓は羽田[1]。通称は助左衛門[1]。別号に白羽堂、三夜亭[1]。
略歴
天明4年(1784年)に生まれた[1]。加賀国河北郡高松村(現かほく市)出身で、幼名は平太郎[2]。一人息子だった[2]。神童と称され[2]、成田蒼虬の門下に入った[1]。米穀商を経営して生計を立て[1]、羽田家本家の羽田佐兵衛の娘八重と結婚した[3]。八重との間で3男(喜四郎、弥三佐衛門、弥三次郎)2女をもうけ、うち弥三次郎がのちの俳人黒田武亥(文化12年(1815年) - 明治3年(1870年))となる[4]。
寛政9年(1797年)に編纂された暮柳舎希因五十年追悼集『夢のあと』において、わずか14歳の自明は「初秋や水打門の草の月」の句を投稿した[5]。また寛政10年(1798年)に出版された『白峯の春』に自明の俳句「日下坐や霞のおよぶ水広し」が含まれた[5]。享和元年(1801年)刊行の『雨の橋』にも「まちまちに時雨る夜の燈に」の句が含まれた[5]。
弘前藩出身の俳人内海草坡と親しく、草坡は300句からなる自明句集を出版しようとしたが、実現しないまま亡くなった[6]。
文政9年11月12日(1826年12月10日)に死去した[1]。法諡は釋現道[7]。
出典
- ^ a b c d e f g 「自明」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社 。コトバンクより2025年1月19日閲覧。
- ^ a b c 高松町史編纂委員会 1974, p. 747.
- ^ 高松町史編纂委員会 1974, p. 748.
- ^ 高松町史編纂委員会 1974, pp. 748, 750.
- ^ a b c 高松町史編纂委員会 1974, p. 746.
- ^ 高松町史編纂委員会 1974, pp. 748–749.
- ^ 大河寥々 1938, p. 432.
参考文献
- 大河寥々『加能俳諧史』金沢文化協会、1938年、432頁。doi:10.11501/1261679。
- 高松町史編纂委員会 編『石川県高松町史』高松町、1974年、745–750頁。doi:10.11501/9536484。
自明の理
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「自明の理」という言葉がある。説明しなくても当然至極の結論として導き出されるものが「自明の理」である。 具体的な例を挙げると、「自動車の運転をしている際、前(進行方向)を見ていないと危険である」は、自動車の性質の上で、運転免許を持つ者には、説明の必要が無いくらい当然の理屈である。同時に、「運転中によそ見をすることは危険である」も同じく、自明の理であり、「運転中に携帯電話でメールの遣り取りをすることも危険な行為である」も、やはり説明する必要もないくらいに、当然至極の結論といえる。
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