石狩沼田幌新事件とは? わかりやすく解説

石狩沼田幌新事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 06:49 UTC 版)

石狩沼田幌新事件(いしかりぬまたほろしんじけん)は、大正12年(1923年)8月21日の深夜から8月24日にかけて、北海道雨竜郡沼田町の幌新地区で発生した、記録されたものとしては日本史上2番目[注釈 1]に大きな被害を出した熊害事件。
ヒグマ開拓民の一家や駆除に出向いた猟師を襲い、4名が死亡、4名の重傷者を出した。


注釈

  1. ^ 松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』には、安政の初めころに蝦夷地網走付近に出没した人食い熊を退治する逸話が掲載されている。死者数は5人である。
  2. ^ 『新編沼田町史』の記述では20人、北海道新聞社発行『ヒグマ』では5人の一団とされている。
  3. ^ 彼は、後に沼田町の町議会議員になった。なお、登場人物名は、『新編沼田町史』で使用されているもので統一する。
  4. ^ 北海道新聞社発行の『ヒグマ』によれば、ウメは戸外に残したわが子を案ずるあまり、自ら戸外に出たとされている。ここでは、『新編沼田町史』の記述を採用した。
  5. ^ 『新編沼田町史』では病院で死亡したとされていたが、実際には1986年まで存命だった。
  6. ^ 長江政太郎の素性については、資料によって相違がある。『新編沼田町史』では「恵比島集落在住の猟師」と記載されているが、北海道新聞社発行の『ヒグマ』や、砂澤友太郎の妻・クラが著した自伝『ク スクッㇷ゚ オルシペ』のp317には「雨竜村伏古在住のアイヌの狩人」と書かれている。なお、砂澤友太郎は彫刻家・砂澤ビッキの伯父である。
  7. ^ 1982年発行の『新編沼田町史』の記述を採用した。1993年発行『増補版 ヒグマ』では、加害ヒグマの収蔵場所は沼田町役場とされている。
  8. ^ 『新編沼田町史』p250‐251によれば、事件当時の幌新地区は「一部」「二部」「三部」の、三つの行政区に分けられていた。幌新太刀別川下流部が一部、支流の「支線の沢」流域が二部、最上流部が三部である。明治後期の記録では、事件関係者のうち持地乙松と村田三太郎が「一部」に、折笠徳治が「二部」に居住していた。のちに炭鉱が開発され、市街地が整った浅野地区は「三部」である。令和初期の現在では、浅野地区(三部)が1992年平成4年)完成の沼田ダム貯水池「ホロピリ湖」湖底に沈み、支線の沢流域の「二部」は1975年(昭和50年)完成の幌新ダム貯水池湖底に沈んでいる。持地宅があった「一部」、つまり事件の舞台は湖底に沈んではいないので注意。

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