京都守護職就任とは? わかりやすく解説

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京都守護職就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:28 UTC 版)

松平容保」の記事における「京都守護職就任」の解説

文久2年1862年28歳 5月3日家茂より「折々登城し幕政相談にあずかるように」と命じられる幕政参与。 閏8月1日京都守護職就任する。この時、容保は時疫かかって病の床にあり、再三これを固辞した。容保は「顧みるに容保は才うすく、この空前大任に当たる自信はない。その上わが城は東北僻在していて家臣らは都の風習にはくらく、なまじ台命将軍家茂の命令)と藩祖保科正之)の遺訓前述会津藩家訓)を重んじて浅才忘れ大任当たれば万一過失のあった場合累は(徳川宗家におよび、すなわち国家におよび、一家一身万死持ってしても償いがたい」と断り続けたが、政治総裁職松平春嶽幕臣たちは日夜勧誘に来た上で会津藩家訓持ち出し土津公(正之)ならばお受けしただろう」と言って詰めより、辞する言葉なくなり奉命決心する家老西郷頼母田中土佐らは急ぎ会津より到着し、京都守護職就任を断る姿勢取った西郷田中家臣たちは容保に謁しこのころ情勢幕府形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで背負って火を救おうとするようなもの。おそらく労多くして功少なし」と、言辞凱切、至誠面にあふれて戒める。しかし容保は、 「それはじつに余の初心であった台命しきりに下り臣子情誼としてもはや辞する言葉がない。聞き及べば余が再三固辞したのを一身の安全を計るものとするものがあったとやら。そもそも我家には宗家盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓がある。余不肖といえども一日報效忘れたことはない。ただ不才のため宗家に累を及ぼすことを怖れただけである。他の批判進退決めるようなことはないが、いやしくも安きむさぼるとあって決心するよりほかあるまい。しかし、重任拝するとあれば我ら君臣の心が一致しなければその効果見られないだろう。卿ら、よろしく審議つくして余の進退考えてほしい」 とのことであったので、家臣いずれも容保の衷悃に感激し、「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」と、君臣肩を抱いて涙したという。

※この「京都守護職就任」の解説は、「松平容保」の解説の一部です。
「京都守護職就任」を含む「松平容保」の記事については、「松平容保」の概要を参照ください。

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