京都守護職就任
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文久2年(1862年)28歳 5月3日、家茂より「折々登城し幕政の相談にあずかるように」と命じられる。幕政参与。 閏8月1日京都守護職に就任する。この時、容保は時疫にかかって病の床にあり、再三これを固辞した。容保は「顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信はない。その上わが城は東北に僻在していて家臣らは都の風習にはくらく、なまじ台命(将軍家茂の命令)と藩祖(保科正之)の遺訓(前述の会津藩家訓)を重んじて浅才を忘れ大任に当たれば、万一の過失のあった場合累は(徳川)宗家におよび、すなわち国家におよび、一家一身万死を持ってしても償いがたい」と断り続けたが、政治総裁職松平春嶽や幕臣たちは日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公(正之)ならばお受けしただろう」と言って詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する。 家老の西郷頼母、田中土佐らは急ぎ会津より到着し、京都守護職就任を断る姿勢を取った。西郷・田中や家臣たちは容保に謁し「このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの。おそらく労多くして功少なし」と、言辞凱切、至誠面にあふれて戒める。しかし容保は、 「それはじつに余の初心であったが台命しきりに下り臣子の情誼としてもはや辞する言葉がない。聞き及べば余が再三固辞したのを一身の安全を計るものとするものがあったとやら。そもそも我家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓がある。余不肖といえども一日も報效を忘れたことはない。ただ不才のため宗家に累を及ぼすことを怖れただけである。他の批判で進退を決めるようなことはないが、いやしくも安きをむさぼるとあっては決心するよりほかあるまい。しかし、重任を拝するとあれば我ら君臣の心が一致しなければその効果は見られないだろう。卿ら、よろしく審議をつくして余の進退を考えてほしい」 とのことであったので、家臣いずれも容保の衷悃に感激し、「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」と、君臣肩を抱いて涙したという。
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