会津家老時代
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万延元年(1860年)、家督と家老職(家禄1700石)を継いで藩主松平容保に仕えた。文久2年(1862年)、幕府から京都守護職就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言したために、容保の怒りを買う。その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説いている。ところが、賛同されずに帰国を強いられ、家老職まで解任された上に、蟄居させられる。この解任理由は、無断上京を咎められたからとされるが定かではない。その後、他の家老たちの間で頼母の罪を赦してはどうかと話し合われてもいる。 明治元年(1868年)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還する。このとき、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側からの家老らに対する切腹要求に態度を一変。頼母は白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃したが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥(白河口の戦い)。その後二ヶ月以上にわたり白河口を死守したが、7月2日に棚倉城陥落の責任により総督を解任される。会津防衛に方針転換してからは進入路に当たる峠(背炙山)の1つを守っていたが、他方面の母成峠を板垣退助率いる土佐迅衝隊に突破されたために、新政府軍が城下を取り囲んだ。 そこで若松城に帰参した頼母は、藩主・松平容保の切腹による会津藩の降伏を迫ったため、容保以下、会津藩士が激怒。身の危険を感じた頼母は、長子・吉十郎のみを伴い伝令を口実として城から逃げ出した。この一件に関し、頼母自身は「軽き使者の任を仰せつかり…」、と述べており(栖雲記)、越後口の萱野長修の軍への連絡にかこつけた逃亡とされる。家老・梶原平馬が不審に思い、追手を差し向けたが、その任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を深追いせず、結果として追放措置となった。
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