会津家老時代とは? わかりやすく解説

会津家老時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:44 UTC 版)

西郷頼母」の記事における「会津家老時代」の解説

万延元年1860年)、家督家老職家禄1700石)を継いで藩主松平容保仕えた文久2年1862年)、幕府から京都守護職就任要請された容保に対し政局巻き込まれる懸念から辞退進言したために、容保の怒りを買うその後も、藩の請け負った京都守護責務に対して否定的な姿勢を覆さず、禁門の変起き直前上京して藩士たちに帰国説いている。ところが、賛同されずに帰国強いられ家老職まで解任された上に、蟄居させられる。この解任理由は、無断上京咎められたからとされる定かではないその後、他の家老たちの間で頼母の罪を赦してはどうかと話し合われてもいる。 明治元年1868年)、戊辰戦争勃発によって容保から家老職復帰許され頼母は、江戸藩邸後始末の任を終えたのち会津帰還する。このとき、頼母を含む主な家老若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順備えていたが、新政府側から家老らに対す切腹要求態度一変頼母白河総督として白河城攻略し拠点として新政府軍迎撃したが、伊地知正治率い薩摩主幹新政府軍による攻撃受けて白河城失陥白河口の戦い)。その後ヶ月以上にわたり白河口を死守したが、7月2日棚倉城陥落責任により総督解任される。会津防衛方針転換してからは進入路に当たる峠(背炙山)の1つ守っていたが、他方面の母成峠板垣退助率い土佐迅衝隊突破されたために、新政府軍城下取り囲んだ。 そこで若松城帰参した頼母は、藩主松平容保切腹による会津藩降伏迫ったため、容保以下、会津藩士が激怒身の危険感じた頼母は、長子・吉十郎のみを伴い伝令口実として城から逃げ出した。この一件関し頼母自身は「軽き使者の任を仰せつかり…」、と述べており(記)、越後口の萱野長修の軍への連絡かこつけた逃亡とされる家老梶原平馬不審思い追手差し向けたが、その任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を深追いせず、結果として追放措置となった

※この「会津家老時代」の解説は、「西郷頼母」の解説の一部です。
「会津家老時代」を含む「西郷頼母」の記事については、「西郷頼母」の概要を参照ください。

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