会津天寧寺とは? わかりやすく解説

会津天寧寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:59 UTC 版)

天寧寺 (仙北市)」の記事における「会津天寧寺」の解説

現在福島県会津若松市所在する天寧寺近藤勇の墓でも知られる)は、文安4年1447年)に蘆名盛信が大瞞行果禅師 南英謙宗のために陸奥国会津黒川東山に開いたといわれる勧請開山傑堂能勝であったかつては会津曹洞宗僧録司兼ね末寺33か寺、僧堂12数えたとされる蘆名家中興英主とされ、会津大勢力を築いた蘆名盛氏が銭100貫文寄進した記録があり、最盛期には雲水1,000名を擁する蘆名氏菩提寺であった天正14年1586年)、蘆名亀王丸死によって蘆名氏血統途絶え伊達氏佐竹氏争いとなったが、結局は佐竹義重次男義広1575年-1631年)が跡を継いだ義広は、当初陸奥国白河白河結城氏継いで結城義広あるいは白河義広称していたが、天正15年1587年)に蘆名盛隆の娘と結婚して正式に蘆名家継ぎ蘆名義広名乗った義広は、天正17年1589年)の摺上原の戦い敗北により米沢伊達政宗によって会津黒川追われ、会津天寧寺もこの戦いで一時焼亡している。当時遺構として残っているのは本堂礎石のみである。 なお、京都天寧寺当時住職祥山曇吉がこの戦いで会津追われ京都避難した際に、本尊安置するために仮に建てた仏堂会津での再興後も門人継承されたものである今日では金森宗和滋野井公麗らの墓所のあることで知られている)。従って会津角館京都の3か所に同名の「萬松山天寧寺」が存在することになる。

※この「会津天寧寺」の解説は、「天寧寺 (仙北市)」の解説の一部です。
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