京都小笠原氏
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小笠原氏には宗家の貞宗の弟の貞長の流れがある。貞長は新田義貞と戦って討死し、子の高長は京都に住んで足利尊氏の弓馬の師範であったという(史実か疑わしい)。以後、幕府に奉公衆として仕えた。京都に住んだ貞長の系統は、兄貞宗の系統を信濃小笠原氏とするのに対して、京都小笠原氏と呼ばれる。 京都小笠原氏の一族は将軍側近の有力武将として重きをなすとともに、幕府初期から的始めなどの幕府儀礼に参加している。6代将軍の足利義教の頃には将軍家の「弓馬師範」としての地位を確立し、以後的始め、馬始めなど幕府の公式儀礼をしばしば差配し、当時における武家の有職故実の中心的存在となった。こうしたことから奉公衆とはいえ一般の番衆とは区別され、書札礼では「小笠原殿のことは、弓馬師範たる間、如何にも賞翫にて恐惶謹言と書く事、可然也」(『大舘常興書札抄』)とされた。 なお従来は、将軍家の弓馬師範は信濃小笠原氏が務めたとされたり、貞宗が後醍醐天皇の師範、高長が足利尊氏の師範を務めたなどの説が流布していたが、これらは後世の付会に過ぎず史料的裏付けに乏しい。小笠原氏が将軍家弓馬師範なる地位を得るのは足利義教の代で、それも信濃小笠原氏ではなく京都小笠原氏である。信濃小笠原氏が武家故実に関わるのは小笠原長時、貞慶父子の時代になってからである。ただし、信濃小笠原氏も弓馬師範ではなかったものの、乗馬に通じていることが広く知られていたことを指摘する村石正行の論文もある。小笠原(赤沢)貞経は長時・貞慶父子より、元亀3年(1572年)には「糾方内儀外儀」(弓馬術礼法)を、天正3年(1575年)には「師範」の許状を受けたとされる。 なお、小笠原政清は同じ幕臣であった伊勢盛時(北条早雲)に娘を嫁がせたとされており、彼女の所生とされる北条氏綱以降の後北条氏歴代当主は京都小笠原氏の血を引いていた事になる。 京都小笠原氏の一族は、嫡流は幕臣として続いたが、小笠原稙盛が永禄8年(1565年)の永禄の変で将軍足利義輝とともに討死すると、稙盛の子の秀清(少斎)は浪人し、後に細川氏(後の熊本藩主細川氏)に仕えた(稙盛は永禄の変後に足利義栄に従ったため、足利義昭の時代に所領を没収されたとする説もある)。秀清は関ヶ原の戦いの際に細川ガラシャの介錯を務め殉死し、秀清の子孫は江戸時代には熊本藩の家老を務めた。また、庶流の小笠原元続は将軍足利義澄の死去後に幕府を離れ、縁戚の後北条氏を頼った。元続の子の康広は北条氏康の娘婿となった。小田原征伐で後北条氏の嫡流が滅亡すると、康広の子の長房は徳川家康の家臣となり、子孫は旗本として存続し、江戸時代の歴代の当主は縫殿助を称した。 旗本となった小笠原長房の子孫は家禄780石余、縫殿助を称した当主が多いため縫殿助家とも呼ばれる。長房の曾孫の持広は享保元年(1716年)に将軍徳川吉宗の命により家伝の書籍91部と源頼朝の鞢(ゆがけ)を台覧に供した。これは吉宗が射礼や犬追物など弓馬の古式の復興に熱心で諸家の記録を調べていたためで、「世に稀なる書ゆえ永く秘蔵すべき」旨の言葉があったという。後に吉宗は近侍の臣らを持広の弟子として射礼を学ばせている。持広は弓場始(的始め)の式に伺候するとともに、小的、草鹿、賭弓、円物、百手的などを上覧に入れるなどした。 子孫も同様な役を勤め、幕末には小笠原鍾次郎が講武所で弓術教授を勤めたが、この家は維新期に断絶する。つまり、室町幕府以来最も長く礼法を伝える家系は現代には続いておらず、縫殿助家と共に徳川幕府の師範家となっていた旗本小笠原平兵衛家(赤沢氏)が、現代では小笠原流(弓馬術礼法小笠原教場)宗家となっている。
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