ばん‐しゅ【番衆】
ばん‐しゅう【番衆】
番衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/29 08:35 UTC 版)
番衆(ばんしゅう)とは、番を編成して宿直警固にあたる者。狭義においては幕府に詰めて将軍及び御所の警固にあたる者を指す。
幕府の番衆の元は鎌倉幕府の源頼朝時代に弓矢に優れた側近の御家人を日夜身辺に置いたことに由来するとされる。源実朝の暗殺後、小侍所が設置され、6番制によって1日1番の小番が編成された。小番の中にも近習番・廂番・申次番などが設けられ、有力御家人の子弟が任ぜられた。彼らは将軍近習層を形成して、時には執権勢力と対抗関係となり、政治的紛争の原因となった。
室町幕府も同様の制度を整備し、後に5番制の奉公衆へと発展する。彼らは将軍の警固のみならず、御料所の経営委任や自己の所領に対する段銭の京済(中間搾取の恐れのある守護などの中間者の関与を経ずに幕府へ直接納付を行う)や守護不入などの特権を得て将軍直属の軍事力の中核となった。更に番衆の概念が武士の身分・家格づけにも応用され、相伴衆や御供衆、申次衆、内談衆などの呼称が生じた。
江戸幕府においても室町幕府の制度は武家故実として尊重され、その一部は旗本・御家人制度にも導入された。すなわち、書院番・奏者番・使番などの将軍近侍・警固の役職に番衆制度が取り入れられたのである。
参考文献
- 福田豊彦「番衆」(『日本史大事典 5』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5)
番衆
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石山本願寺の防衛軍として戦闘し、また日常の警備のため上番してくる門徒は「番衆」と呼ばれていた。この制度は山科本願寺時代より制度化され、石山本願寺時代に更に充実されている。堂舎の維持管理を行う「御堂番衆」と呼ばれる者もいたが、警備は番衆が行っており、石山本願寺の「大鼓番屋」(太鼓)と呼ばれる場所に詰めて平時でも300兵前後が常駐していた。「太鼓」という名称から、寺内町の合図や時刻を知らせるのも彼らの任務の一つであったと考えられている。弓矢、鑓などの武具は自ら用意し、食料も自弁する「自兵粮衆」、「自飯米衆」と別称で呼ばれていた。これらは個人で用意するのでなく国元から別送されている場合もあった。番衆は、宗主から元旦に挨拶をうける事になっており、弓持衆、鑓持衆、荷持衆に分かれていた。また「加賀十人組衆」、「加賀石川郡米富」、「河原十人衆」などが記録にみえ、加賀国では郡規模で組を編成して上番していたと思われる。平時の番衆は、「寺内町」や近所の法安寺で喧嘩がおこった時の仲裁や、土木工事にも従事していた。
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