近世の武
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江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちであった。「歴代制度巻二〇」によれば武村は鹿児島近在のうちの近名に属していた。村高は「天保郷帳」では1,657石余、「郡村高辻帳」では1,657石余、「三州御治世要覧」では1,814石余、「旧高旧領取調帳」では1,135石余であった。武村には庄屋が置かれ城下士から選任された。また、名主が5名、名頭が51名置かれていた。宝暦頃の武村には屋久島蔵、御船手と呼ばれる役所が置かれていた。「三州御治世要覧」によれば塩屋村(現在の甲突町)が武村に含まれていたが、寛永5年(1628年)に武村から塩屋村が分立して設置された。 また、武村には八幡田圃と天保山と呼ばれる飛地があった。このうち天保山(現在の天保山町の一部)は天保年間に薩摩藩において行われた天保の改革の一環として甲突川の浚渫土砂によって埋立てられ造成された土地である。天保山は江戸時代末期には薩摩藩の演習場として利用され、砲台も設置された。 嘉永元年(1848年)には甲突川に武之橋が架けられた。明治時代初期には武村の一部が新屋敷通町(現在の新屋敷町)に分割された。
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近世の武
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 10:06 UTC 版)
江戸時代には大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では297石余、「旧高旧領取調帳」では350石余であり、桜島では最大の石高数であった。 安永8年の桜島大噴火では噴石や降灰による被害が甚大であり、村民は鹿児島城下に避難した。
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