近世の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 14:37 UTC 版)
大谷砂留が初めて古文書に登場するのは、福山藩によって命じられて1730年より山番として大谷山を管理していた神原家に伝わる安永2年(1773年)の「塲所帳」であり「砂留七ヶ所」という文字が読み取れる。「塲所帳」には大谷東谷に3基の砂留があると記載されているものの、記されている堤高と堤長は2016年からの調査での実測値と乖離しており、いずれの砂留とも一致しない。また明治時代以降に作成された「芦品郡有磨村字下有地大谷山全圖」には2016年からの調査で確認された6基の砂留が記載され、更に「芦品郡有磨村大字下有地字大谷山林畧圖」には、その上流側の3基の砂留の存在が描かれている。1960年(昭和35年)7月の集中豪雨で付近数十カ所で土砂崩れがあり、3カ年計画でコンクリート製の砂防ダムの設置や植林事業が行われた。1961年(昭和36年)に神原武雄により記載された「モデル治山治水大谷山観光森林公園圖」には大谷東谷に6基の砂留の位置を記載されており、下流側から1番-4番とされている。大谷東谷の渓流に砂留があることは古くから地元住民に知られており、4番砂留などは子供の遊び場にもなっていたが、全容に関する知見は次第に失われていた。広島県の砂防台帳には記載が残っていたが、1995年(平成7年)に広島県土木建築部が纏めた論文や、1997年(平成9年)に広島県がまとめた『福山藩砂留』には掲載されていない。
※この「近世の歴史」の解説は、「大谷砂留」の解説の一部です。
「近世の歴史」を含む「大谷砂留」の記事については、「大谷砂留」の概要を参照ください。
- 近世の歴史のページへのリンク