近世の泊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:20 UTC 版)
江戸時代には薩摩国河邊郡坊泊郷(外城)のうちであり、明治2年に坊泊、久志秋目、鹿籠の3郷が合併し南方郷のうちとなった。石高は「天保郷帳」には994石余、「旧高旧領取調帳」には332石余と記載されていた。伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によると家数は297軒あり、本村40軒、泊浦85軒、茅野108軒、平原64軒、その他郷士20軒があったと記されている。 江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である『三国名勝図会』に挿絵付きで泊港が収録されており、泊港について坊津の支港であり琉球諸島に下る帆船はここで停泊して風を待ったと記載している。全文は以下のとおりである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}泊港 泊村にあり、唐港の支港なり、唐港の海口と一にして、西尾の山觜其中に隔たり、両港を分つ、此港の西北岸より、港内の西南へ、大巌觜鋭出するを五町許、丸木崎といふ、丸木崎の東西共に大灣をなす、其西灣を丸木浦といふ、丸木浦の西大海の方は、久志の地觜西北より東南に突出し、其觜端の海上大礁小嶼断続相連りて、海上を𢫵蔽す、故に丸木浦湾形をなして、安嶴なり、入七八町、濶さ六町許あり、且海口に近くして、舟船の出入に便なる故、琉球諸島に下る者、多く停泊して風を待といふ、丸木崎の東灣を泊浦といひ、其渚を泊濱といふ、村落ありて、人烟頗る多し、泊浦入四五町、濶さ拾町許、然れども海淺くして、大船を繋ぎがたし、泊浦の東南に山觜あり、陸地より、西北海中に尖出すること一町許、宮崎といふ、此觜ある故、泊浦は灣をなす、宮崎に九玉大明神社あり、松樹森然たり、此觜端に洞窟ありて透明す、坊津御崎の圓洞に比すれば稍小し、土人亦是を秋月と呼ぶ、宮崎の東南は、即西尾にして、灣曲をなす、荒床浦といふ、灣内稍大船を繋ぐべし、又宮崎の海上西尾觜に接近して小嶼あり。松嶼といふ。此泊港も巌礁亂點し、山觜横出して、景色頗る佳なり、 —三国名勝図会巻之二十六 泊を始めとする坊津の各地は海路の要点となっており、泊には車岳に見張所が置かれた。 江戸時代初期の明暦頃から昭和初期までは泊港を拠点としてカツオ漁が行われており、享和年間頃には鰹節の製造が始まり、文政12年(1829年)の泊港の漁獲高は鰹6,554尾、代金1,220貫であった。
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