近世の池之上町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:03 UTC 版)
池之上町という町名は江戸時代より見え、薩摩国鹿児島郡鹿児島城下のうちであった。江戸時代初期の鹿児島城下の北限に位置していた。北西部には福昌寺があり、寺の東部には士屋敷が広がっており、福昌寺郷中や家鴨馬場郷中があった。士屋敷には持高399石余の新納家屋敷や給知高500石余の島津靭負屋敷などがあった。 福昌寺は薩摩藩で最も大きい寺院であり、1500人余りの僧侶が居住していたとされ、1,361石の寺領を有していた。末寺には南林寺や妙谷寺、興国寺、隆盛院、梅岳寺(伊集院)、竜光寺(出水)、慈眼寺(谷山)、常珠寺(田布施)、竜昌寺(国分)、心岳寺(帖佐)などがある。 薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」巻之五(鹿児島之四)の全巻にわたって福昌寺について掲載しており、以下のように記述している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}玉龍山福昌寺 坂本村、長谷場にあり、能登州諸岳山惣持寺の末にて曹洞宗なり、大門、山門、本堂、皆南に向ふ、七堂伽藍を作る、大門に獅子吼の額、山門には、玉龍山の額、本堂には覚皇賓殿の額を標し、客殿には、勅願所福昌寺の六字を題す、… —三国名勝図会巻之五 明治時代の初期には池之上町は鹿児島府下のうちであった。明治時代初期の池之上町は士族が平民より多く居住しており、武家町であった。 池之上町に所在しており島津氏の菩提寺であった玉竜山福昌寺は明治時代初期に活発となった廃仏毀釈によって明治2年8月8日に1,361石余の寺領を没収され、同年11月に知政所(藩庁)により廃寺の命が下った。その結果、徹底的に破壊され廃寺となった。同年長崎の浦上で捕らえられたキリスト教徒が各藩に預けられることとなり、薩摩藩に預けられた375人が廃寺後の福昌寺跡に収容され、58人がこの地で病死し福昌寺墓地にキリシタン墓が造られ葬られた。 1881年(明治14年)には池之上町に戸長役場が設置された。1885年(明治18年)に鹿児島県授産会社が池之上町に設立され、塩田業や養蚕業を行っていたが1903年(明治36年)に解散した。
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