武家町(屋敷町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 01:28 UTC 版)
以下、屋敷町とも呼ばれた武家町について、説明する。 厩町(うまやちょう): 藩の馬屋があった。 白壁町(しらかべちょう): 明確な記録はないが、江戸時代の初期に白壁の目立つ大きな屋敷があったことに由来すると考えられる。 仲之町(なかのちょう): 厩町と白壁町との間の「仲の通り」とされた。 鳥見町(とりみちょう): 藩の鳥見役が居住していた。 杉並町(すぎなみちょう): 江戸時代初期の城主・奥平忠昌により城下町が拡張される前には、ここは町外れに位置し、杉並木があったことに由来。 代官町(だいかんちょう): 城主が奥平忠昌の頃、代官役の屋敷があった。 三神町(さんじんちょう): 町内付近に社祠が3つあったことに由来。 三神町の稲荷神社、大工町の恵比須神社(蛭子神社)、および、かつては古河城諏訪曲輪の場所(現在の古河歴史博物館とその周辺)にあった諏訪八幡神社を指していると考えられる。 片町(かたまち): 通りの南側が堀で、北側のみ屋敷があったことから片側の町とされた。 六軒町(ろくけんちょう)・四軒町(よんけんちょう): 片町と合わせて「大通り」と呼ばれ、城内屋敷に住む重臣の次に高禄だった家臣が住んでいた。
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武家町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 03:32 UTC 版)
武家町は江戸や大坂、京都などに武家屋敷が集中し形成された街並みである。特に江戸には数多くの武家屋敷が設置され、江戸の面積の約50パーセントが武家屋敷で占められていた。明治以降、武家屋敷と共に武家町も消滅したが、現代では侍町を武家町と呼ぶことが多くなっている。
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