武家権勢導誉法師
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正平13年/延文3年(1358年)に尊氏が薨去した後は、2代将軍義詮時代の政権において政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停した。 この頃、導誉は義詮の絶大な支持のもと執事(後の管領)の任免権を握り事実上の幕府の最高実力者として君臨する。仁木義長と細川清氏の執事職をめぐる争いでは清氏を支持し執事に据えるが、確執が発生すると清氏をあっさりと廃し将軍親裁の政治を復活させる。正平17年/貞治元年(1362年)には縁戚関係のもと友好的な関係を築いた斯波高経を執事に推薦するが、将軍家と同等の家格であると自負する高経は執事職への就任を拒んだ。このため婿である高経の3男氏頼を推薦するが、高経はこれに対抗し溺愛する4男義将を推薦し結果として義将が管領に就任する(斯波足利家による執事就任拒否によりこのころ執事が管領に職名を変えた)。義将はこのときまだ13歳であり、事実上高経が政権をとった。 このように一時導誉は高経の下風に立ち、京極佐々木家内の内紛から発生した3男の高秀による家臣筆頭の吉田厳覚暗殺事件についても高経につけこまれる。更には高経から任された五条橋の建築が遅延した為、高経自身がこれを自分で素早く建築してしまうという出来事が発生し、導誉は高経に面目を潰され高経との関係は決定的に悪化する。 そこで導誉はまず高経が将軍の邸で開催する花見に目をつけた。導誉はその花見の日にぶつける形で原野で盛大な花見の会を開いた。それは京都中の芸能人が根こそぎ集められ、香が焚かれ「世に類無き遊」と謳われるほどのものだった。こうして高経に意趣返しをした導誉は今度は高経の追い落としを図る。高経の高圧的な政治は守護層の反発を招いており、導誉はこうした守護をとりまとめると義詮に讒言し、正平21年/貞治5年(1366年)に高経は失脚した(貞治の変)。また、南朝とのパイプを持ち和睦交渉に尽力するも成果を出せなかった。 正平22年/貞治6年(1367年)に幕府が関東統治のために鎌倉に設置した鎌倉公方足利基氏が卒去すると、鎌倉へ赴いて基氏の子氏満への引継ぎの事後処理を務める。同年に導誉の推薦を得た細川頼之が管領に就任、翌正平23年/応安元年(1368年)に高秀が出雲守護に就任していることから、隠居したと考えられている。 文中2年/応安6年(1373年)に甲良荘勝楽寺にて卒去、享年78。戒名は勝楽寺殿徳翁導誉。 墓所は京極氏の菩提寺である滋賀県米原市清滝の徳源院、滋賀県甲良町の勝楽寺。
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