武家権勢導誉法師とは? わかりやすく解説

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武家権勢導誉法師

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

佐々木道誉」の記事における「武家権勢導誉法師」の解説

正平13年/延文3年1358年)に尊氏薨去した後は、2代将軍義詮時代政権において政所執事などを務め幕府内における守護大名抗争調停したこの頃、導誉は義詮絶大な支持のもと執事(後の管領)の任免握り事実上幕府の最高実力者として君臨する仁木義長細川清氏執事職をめぐる争いでは清氏支持し執事据えるが、確執発生する清氏をあっさりと廃し将軍親裁政治復活させる正平17年/貞治元年1362年)には縁戚関係のもと友好的な関係を築いた斯波高経執事推薦するが、将軍家同等家格であると自負する高経は執事職への就任拒んだこのため婿である高経の3男氏頼を推薦するが、高経はこれに対抗し溺愛する4男義将推薦し結果として義将管領就任する斯波足利家による執事就任拒否によりこのころ執事管領職名変えた)。義将はこのときまだ13歳であり、事実上高経が政権をとった。 このように一時導誉は高経の下風に立ち、京極佐々木家内の内紛から発生した3男の高秀による家臣筆頭吉田厳覚暗殺事件についても高経につけこまれる更には高経から任され五条橋建築遅延した為、高経自身がこれを自分素早く建築してしまうという出来事発生し、導誉は高経に面目潰され高経との関係は決定的に悪化する。 そこで導誉はまず高経が将軍の邸で開催する花見に目をつけた。導誉はその花見の日にぶつける形で原野盛大な花見の会を開いた。それは京都中の芸能人根こそぎ集められ、香が焚かれ世に無き遊」と謳われるほどのものだった。こうして高経に意趣返しをした導誉は今度は高経の追い落としを図る。高経の高圧的な政治守護層の反発招いており、導誉はこうした守護とりまとめる義詮讒言し正平21年/貞治5年1366年)に高経は失脚した貞治の変)。また、南朝とのパイプ持ち和睦交渉尽力する成果出せなかった。 正平22年/貞治6年1367年)に幕府関東統治のために鎌倉設置した鎌倉公方足利基氏卒去すると、鎌倉赴いて基氏の子氏満への引継ぎ事後処理務める。同年に導誉の推薦得た細川頼之管領就任、翌正平23年/応安元年1368年)に高秀が出雲守護就任していることから、隠居した考えられている。 文中2年/応安6年1373年)に甲良勝楽寺にて卒去享年78戒名勝楽寺殿徳翁導誉。 墓所京極氏菩提寺である滋賀県米原市清滝徳源院滋賀県甲良町勝楽寺

※この「武家権勢導誉法師」の解説は、「佐々木道誉」の解説の一部です。
「武家権勢導誉法師」を含む「佐々木道誉」の記事については、「佐々木道誉」の概要を参照ください。

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