武家政権時代の近衛大将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/01 06:10 UTC 版)
建久元年(1190年)、源頼朝は平治の乱で伊豆国に流罪となって以降初めて上洛し、権大納言と右大将に任じられた。わずかな期間で両職を辞した(右大将在任は11月24日 - 12月4日)ものの、朝廷及び幕府内部における自己の立場の権威づけに成功させ、鎌倉幕府確立への道筋をつけた。「幕府」とは本来は近衛大将の唐名であり、右大将就任をもって鎌倉幕府の成立とする見方もある。3代将軍源実朝は右大将よりも高位の左大将を望んだ。 室町幕府3代将軍足利義満は、武家の範疇に留まらず朝廷・公家への勢力浸透を図り、永和4年(1378年)源頼朝の嘉例にのっとって権大納言兼右近衛大将に就任する。以後の官位官職の昇任は速く太政大臣に至り、やがて院権力をも吸収していく。これ以降は足利将軍が右近衛大将に任官することが慣例となったが、鎌倉時代以来の右大将任官者は摂関家・清華家でほぼ占められており、そこに加わることは公武社会においてそれらに匹敵する家格を世に示す重要な儀礼的意義があったとする見方がある。 織田信長は将軍足利義昭を追放した後、天正3年(1575年)11月に権大納言・右近衛大将に任ぜられ、官職においてなお左近衛中将のままであった[要出典]義昭の上位に立った。これは足利将軍にかわる天下人の地位を表象するものであり、信長は以後「上様」と呼ばれ、将軍と同等とみなされた。 江戸時代には摂家が左近衛大将の地位を独占した(徳川将軍ですら例外的に4名が任じられたのみであった[要出典])。右近衛大将は基本的に清華家にのみ任じられた。これとは別に、員外の武家官位として、徳川将軍家の近衛大将任官が通例となった。江戸幕府において右大将といえば、ふつう将軍家世子の事を指す。
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