武家政権時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:07 UTC 版)
鎌倉時代の1203年(建仁3年)、原田種雄(たねかつ)が幕府より秋月庄を賜り秋月城(現在は城跡のみ)の築城を始める。それ以降、原田氏は秋月氏を名乗り、以後17代にわたって統治が続き城下町として栄える。 上座郡長淵荘 鎌倉時代初期には後鳥羽上皇の院近臣であった比叡山の僧で尊勝寺執行・尊長が領家で、後に上皇の皇子・道覚入道親王に領家職を譲ったが、承久の乱関係者の所領とされて没官され、関東御領に編入された。 承久の乱は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。 正応元年(1288年)、元寇に対する九州御家人の対する恩賞として分配されたが、余りにも多くの御家人間で分割されたために、1人あたり3-5町規模しか与えられず、 実際の支配は困難であり、ほとんど不知行と化していった。後に博多崇福寺に寄進された地域もあったとされているが、その後の動向は不明である。 甘木山安長寺と博多承天寺 安長寺は、正安年間(1299-1301)、博多承天寺の住職・蔵山順空和尚(諡号は円鑑禅師)が現在の禅宗に改宗したという。この時期に甘木山安長寺の住職を兼務。博多承天寺は寛元元年(1243年)、官寺となっている。 黒川院 正慶2年(1333)12月、後伏見天皇第6皇子・長助法親王が彦山の座主(ざす)として入御され、その館を上座郡黒川村につくり「黒川院」と称した。この長助法親王(助有法親王)から舜有法主まで(天正15年)14代の座主が黒川に館を構えた。1578年(天正6年)12月に黒川院は秋月種実により焼き討ちされ灰燼に帰した。 15代の忠有法主以降、館は彦山に移された。 新田 鎮実(にった しげざね) 鎮実の父である氏景の代で大友氏幕下となる。大友義鎮(宗麟)より偏諱を受けて鎮実と称し、筑前国上座郡内に知行を与えられる。元亀年中に義鎮の命令により戸次道雪、立花宗茂附添となり、立花山城籠城戦で奮戦し、感状を与えられる。 天正15年(1587年)、九州平定で下向した豊臣秀吉による国割の結果、筑前上座郡の所領を失って大友氏を去り、同年中に立花宗茂に仕える。 九州平定以降 1587年(天正15年)、九州に攻め込んだ豊臣秀吉の軍勢の前に敗れ、秋月氏は日向国高鍋に移封された。その後江戸時代に入り1623年(元和9年)、福岡藩を統治していた黒田長政の遺言により、長政の三男黒田長興が秋月に5万石で分封され秋月藩が成立、城下町を立て直した。以後は黒田氏による統治が明治時代の廃藩置県まで続くこととなる。 廃藩置県により秋月県が誕生、県庁所在地となったがすぐに福岡県に統合され、県内の一都市となった。その後、明治政府の打ち出した政策に強い不満を抱いた士族により、1876年10月24日熊本藩で起きた神風連の乱に呼応する形で10月27日に秋月の乱が起こった。
※この「武家政権時代」の解説は、「朝倉市」の解説の一部です。
「武家政権時代」を含む「朝倉市」の記事については、「朝倉市」の概要を参照ください。
- 武家政権時代のページへのリンク