武家文化の萌芽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:42 UTC 版)
上述したように、鎌倉時代にあっても主たる文化の担い手は公家や寺社であり、一般的に武士の文化水準は低かった。承久の乱の際、5,000を超える武士のなかにあって後鳥羽上皇の院宣を読むことができた藤田三郎は「文博士」と称されてめずらしがられるほどであった。しかし、武家政権の成立にともなう武士階級の政治的、社会的、ないし経済的成長は、おのずから彼ら自身を文化を享受する立場へと引き上げ、上述の板碑などにみられるごとく、彼らの好みや指向を反映する新しい文化の創造をうながすこととなった。この時代の仏教が新仏教・旧仏教ともに穢れ多き者の救済を掲げたことも、武士階級の地位向上と深いかかわりがある。 武家特有の文化も徐々に形成されていくこととなった。その萌芽は武士の日常生活のなかに認められる。たとえば、戦陣に備えた犬追物、流鏑馬、笠懸の修練は「騎射三物」と称されて重視されていたが、王朝国家の武人の儀式も採り入れて「弓馬の道」として体系化がすすみ、つぎの室町時代にいたっては礼の思想その他と融合して武家故実の一部となった。狩猟行為であると同時に軍事演習の意味も有した巻狩は、山の神を祭る聖なる行事でもあり、富士野・那須野でのものが有名である。巻狩の獲物はイノシシやシカであり、貴族や仏僧が宗教上の理由で忌み嫌った獣肉も、武士にとっては重要な食糧となった。工芸の面でも、甲冑や刀剣の名品がつくられている。 のちに武家の家訓へと発展していくものとしては、武士の子弟に対する教戒があり、北条重時家訓(極楽寺殿消息)、金沢実時教戒などが著名である。武家文書のなかに多数のこって今に伝えられる置文にも同様の内容が盛られている。 武家の学問への関心も高まり、北条実時(金沢実時)は、鎌倉の外港として繁栄した六浦の金沢(現在の横浜市金沢区)に金沢文庫をつくって和漢の多くの書籍を集めた。その子孫も文庫の充実に努め、のちに金沢氏の菩提寺であった称名寺が管理を委ねられた。収蔵されたおもな書籍は、古鈔本、宋版、元版で、『群書治要』『春秋左氏伝』『尚書正義』『律』『令』『論語正義』『春秋正義』『文選』『白氏文集』等がある。このような営為の蓄積が、室町時代にはいって武家が衰亡化する公家にかわって古典文化保存の担い手たる役割を果たしえたものと指摘される。また、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』も幕府自身によって編まれた。
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