鎌倉文化とは? わかりやすく解説

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鎌倉文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/27 16:04 UTC 版)

鎌倉文化(かまくらぶんか)は、鎌倉幕府の成立した12世紀末から幕府が滅亡した14世紀前半にかけての日本の文化。王朝国家からの自立を指向する本格的な武家政権東国に開かれた時代であり、各方面で新しい文化的所産が生まれた。


注釈

  1. ^ 法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍によってはじめられた6宗を新仏教と称する見解は家永三郎井上光貞らをはじめとして長い間通説となっていたもので、本項での説明は基本的にはこれを踏襲した。ここでは、選択・専修・易行を特徴として広く武士や庶民に信仰の門戸を開いたことが重視される。これに対し、黒田俊雄は鎌倉時代にあっても南都六宗や天台宗・真言宗らの旧仏教が主流であったという「顕密体制論」を唱え、これら主流派の寺社勢力に対する異端として法然・親鸞・日蓮・道元らを位置づけた。ここでは、従来、古代的とのみ見なされてきた仏教勢力が封建領主の一形態として中世的な変化を遂げていく様態が重視される。さらに、近年では松尾剛次が官僧および遁世僧という分析視覚を設定して、新たな鎌倉仏教論を展開しており、それによれば、遁世僧を祖師として個人の救済につとめた教団こそが鎌倉新仏教と称されるべきであり、その意味からは高弁や叡尊も何ら6宗との差異が認められないところから、鎌倉新仏教の範疇に含めて考えて問題ないと主張している。松尾(1995)ほか
  2. ^ 源義経・弁慶主従の平泉落ちを題材とした歌舞伎勧進帳』は、安宅関で土地の関守の富樫左衛門に見とがめられたとき、弁慶が白紙の巻物を東大寺再建の勧進帳と称して読み上げる場面で有名である。
  3. ^ 造営料所にあてられた国は周防のほか播磨国、備前国安芸国肥前国の計5か国におよんだ。また、播磨浄土寺、伊賀新大仏寺、周防阿弥陀寺、摂津渡辺別所など全国7か所に別所を設けて再建事業の拠点とした。
  4. ^ 専修念仏の教えは浄土門のなかに多念義と一念義の論議を生んだ。法然自身は一念義の立場を認めながらも自身は多念であったが、親鸞は一念義の立場に立った。石井(1974)pp.429-430
  5. ^ 弟子の唯円の著した『歎異抄』の一節「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」で著名である。
  6. ^ 遊行派もふくめのちに時宗12派とよばれる。黒田(1979)p.226
  7. ^ 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言で知られる。
  8. ^ 日蓮は、『本尊問答抄』のなかで自身を「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』では「海辺の施陀羅が子なり」などと書き記しており、自分の信仰は、この時代に虐げられていた人びとの救済を強い動機としていることを表明している。
  9. ^ それゆえ、禅宗は浄土門の立場からは「自力仏教」と称される。
  10. ^ 建長寺2世の兀庵普寧も宋からの渡来僧であるが、時頼死後は支持者を失って帰国した。『鎌倉事典』(1992)
  11. ^ 1240年代から14世紀なかばまでの約100年間で30名ほどの中国からの渡来僧、200名以上の渡海僧が確認されている。村井(2004)pp.67-69
  12. ^ 中世における禅林は多民族的な世界から成り立っており、さかんに文化交流がおこなわれて「アジアの国際社会」を創出していた。村井(2004)pp.83-86
  13. ^ 道元の妹の生んだ子が土御門天皇であり、承久の乱に連坐して配流された三上皇の一人である。ただし、乱には無関係でみずから土佐国に赴いた。
  14. ^ 永平寺は、1244年寛元2年)に建てられた大仏寺が起源であり、その2年後、中国に仏教が伝わったとされる後漢の元号永平にちなみ、また、戦乱の世を倦いて「永久平和」を願ったところから改称された。
  15. ^ 現在では真言宗の寺であるが、江戸時代にあっては「御寺」と呼ばれ、歴代天皇の墓、月輪陵があった。
  16. ^ 1258年(正嘉2年)以前に鎌倉の扇谷に造営された新清水寺の本尊が丈六の鉄造観音像であった。現在は頭部のみ東京の大観音寺に遺存している。山本勉(2008)p.31
  17. ^ 伊行末は東大寺の再興にあたって大仏殿・講堂の石壇などの建築にたずさわった。上横手(1989)p.108
  18. ^ 考古学者服部清道1931年(昭和6年)に著した『板碑概説』では、地域性により、武蔵型・下総型・東北型・畿内型・阿波型・九州型に分類している。坂詰(1984)pp.14-15
  19. ^ 前代の平安時代にあっては真言宗の立場からの両部神道、天台宗の立場からは山王神道が起こっている。
  20. ^ 帝権の正統性と君臣の別をわきまえることを重んじる思想。
  21. ^ 整備したのち平成26年の仮オープンをめざしている。龍居(2009)p.37
  22. ^ 夢窓疎石は、鎌倉に瑞泉寺を建立するまで美濃永保寺観音閣、土佐五台山吸江庵、相模横洲泊船庵、上総千町荘退耕庵を経て後醍醐天皇の要請に応じていったん京都南禅寺の住職となった。西芳寺庭園は鎌倉下向後にふたたび京都にもどっての作庭である。
  23. ^ 山本勉は、このような変革はむしろ平安時代後半以降の和様彫刻の成熟のうえに立ったものであることに注意すべきであるとしている。山本「中世の仏教彫刻」(2006)pp.22-23
  24. ^ 像の目の部分を刳りぬいて内側から凸レンズ状に磨いた水晶を嵌め込み、瞳を描く技法。日本独自の技法で院政期にはじまった。
  25. ^ 阿形像の持物の金剛杵の矧目内面に「造東大寺大勧進大和尚南無阿弥陀仏」(重源)および運慶・快慶の名が墨書で記されていた。入間田(1991)p.266
  26. ^ ここで湛慶の作風と当時の院派・円派の作風とがたがいに近づいているところから、ここに統一的な鎌倉彫刻様式の完成を想定する見解がある。その一方で、こうした見解に対する疑義も示されている。山本勉「中世の仏教美術」(2006)pp.25-26
  27. ^ 「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」(明治38年1月、本郷書院刊『恋衣』所収)。なお、晶子の歌には「釈迦牟尼」とあるが実際は阿弥陀如来である。
  28. ^ 上杉氏は、代々足利氏と婚姻関係をむすび、孫の清子は尊氏・直義の兄弟を産んだことから、その子孫は関東管領職に任じられている。
  29. ^ 『吾妻鏡』には、上皇が1221年に仏門に入る際、信実にみずからの肖像を描かせたという記事がある。『日本国宝大事典』(1980)p.185
  30. ^ 威(おどし)とは「緒通し」の意であり、「赤糸威鎧」とは赤い糸で綴られた鎧のことである。
  31. ^ 平泉館で執りおこなわれた儀式でも、藤原秀衡の子息たちが「赤根染」の装束で登場したことが同地より発見された折敷の墨書より確認されている。入間田(1991)p.162
  32. ^ 青蓮院は天台宗の門跡寺院。天下三不動の一つ「青不動」を所蔵する。
  33. ^ 従来、「尊円法親王」と表記されることの多かった人物である。法親王は正式に出家した親王であるのに対し、尊円は正式な僧侶となっていないので「入道親王」の表記がなされる。
  34. ^ 天皇ですら道理に合わなければ倒されてしまうという考えは、反面、鎌倉幕府に対しても善政を求めるものであった。
  35. ^ 吉田精一は、他に『風につれなき物語』『苔の衣』『小夜ごろも』を掲げている。吉田(1972)p.155
  36. ^ 語りの文芸は平曲のほか、室町時代には謡曲浄瑠璃が成立し、近世には義太夫節清元常磐津浪曲などがある。
  37. ^ 鎌倉時代後半から建武新政にかけて「当今御謀反」などの表現がしばしばみられる。これについて、当時、天皇の権力が公権力としての地位を失い、一種の私権力としてみられていたことの現れとみる見解がある。尾藤(2000)p.114
  38. ^ 兼好法師は「吉田兼好」の名で有名であるが、正しくは「卜部兼好」である。卜部家が吉田と称するようになったのは、室町時代の吉田兼熈(卜部兼熈)からであり、吉田兼好の名は鎌倉時代および南北朝時代の史料にはまったく見られない。また、卜部家の本流の姓をさかのぼって支流の出である兼好にまでおよぼす必要もまったくない。それゆえ吉田兼好の名はまったくの誤りであるが、江戸時代に誤って「吉田兼好」と伝えられてしまい、長らくその名で流布した。安良岡「吉田兼好」『国史大辞典』(1993)p.403
  39. ^ 『東関紀行』では、『海道記』で歌の詠まれた同じ土地で歌が詠まれたり、地域の逸話伝承について『海道記』の既述箇所を補完して記した部分も多い。五味(2009)p.30-31
  40. ^ 承久の乱ののち、後鳥羽上皇は、隠岐国に流されてからも資料を持ち込んで歌集の切り継ぎを続けた。上皇により約5分の1が削除されたものを、『隠岐本新古今和歌集』という。
  41. ^ 「金槐集」における「金」は鎌倉、「槐」は槐門(大臣)をあらわし、全体で「鎌倉右大臣家集」の意味となる。
  42. ^ 幕末の志士高杉晋作は「東行」と名乗ったが、これは西行にならったものである。
  43. ^ 百人一首が歌カルタになったのは17世紀中ごろのことと考えられている。
  44. ^ 藤原道長の子藤原長家は、醍醐天皇皇子の左大臣兼明親王の旧邸に住んだことから御子左家と称した。この家からは藤原俊成、定家、為家など歌人を輩出した。
  45. ^ これに朝廷の大覚寺統持明院統の対立がからんで公家社会の問題となった。
  46. ^ 上の句(五・七・五)と下の句(七・七)の2句で完結するものを短連歌という。長連歌には百韻(100句)や歌仙(36句)などがある。
  47. ^ 俳諧連歌は、有心連歌を中心とする純正連歌に対するもので無心連歌の流れをくむ。近世にはこのなかから俳句が生まれる。
  48. ^ 能弁で清朗な澄憲の美声は人びとを惹きつけ、多くの聴衆の感涙をさそったといわれる。黒田(1979)p.239
  49. ^ 昭和初年に東大寺で発見された唱導のテキスト。1298年(永仁6年)ころに良季という僧によって作成された。黒田(1979)p.240

参照

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