せんごひゃくばんうたあわせ〔センゴヒヤクバンうたあはせ〕【千五百番歌合】
千五百番歌合
読み方:センゴヒャクバンウタアワセ(sengohyakuban’utaawase)
千五百番歌合
主名称: | 千五百番歌合 |
指定番号: | 2483 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1994.06.28(平成6.06.28) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | |
員数: | 10帖 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 『千五百番歌合』は建仁二年(一二〇二)秋から翌年春にかけて成立した中世歌合史上最大規模の歌合である。後鳥羽上皇は正治二年(一二〇〇)から四度にわたって百首歌を催したが、その第三度の百首を建仁元年六月頃に作者三〇人を選んで詠進させた。この百首歌の作者を左右に分けて結番し、一〇人の判者に判進を命じたのがこの『千五百番歌合』で、その完成は建仁三年春頃と推定されている。作者は後鳥羽上皇、藤原定家、源家長、慈円等当時の代表的歌人を網羅し、判者は後鳥羽上皇、藤原良経、藤原俊成などが百五十番宛を分担している。各判詞も上皇が勝負を折句とした判歌とするほか、良経は七言二句の漢詩句で判を加えるなどの工夫を凝らした形式で、判者の歌論を示す史料としても注目されている。ただし、判者のうち源通親は建仁二年十月に没したため、その分は欠判となっている。 本帖は高松宮家旧蔵になる鎌倉時代末期の古写本で、体裁はいわゆる旋風【せんぷう】様で、当初より折本状に書写したものである。現装は後補の濃萌葱地菊花文緞子表紙に見返は料紙共紙、本文料紙は楮紙に天二罫、中および地単罫の単墨界を施して用いる。第一帖には首に「百首謌合」の内題があり、ついで題、作者、判者を掲げ、本文は各帖百五十番宛を収めている。本文は各帖別筆で、半葉一二~一六行、和歌は一首二行書きに天界上段より、判詞は第二段より、作者名は中段に書写する。文中まま訂正・校異などがあり、上欄外には集付【しゆうづけ】がみえる。第一帖末に「以書本一交畢」の校合奥書があり、第二・三帖の帖首見返の紙背にも校合と書写したことを示す墨書があるが、現状では筆者名を判読できない。なお、現在は各帖とも天地欄外に後補の金切箔銀砂子野毛散の装飾意匠が加えられている。 |
千五百番歌合
千五百番歌合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/12 04:14 UTC 版)
千五百番歌合(せんごひゃくばんうたあわせ)は、鎌倉時代に後鳥羽院が主催した歌合。仙洞百首歌合とも言う。[1]
- ^ a b c d 松野陽一・𠮷田薫編『藤原俊成全歌集』笠間書院、2007年 ISBN 978-4305703286 pp.1032
- ^ a b c 田渕句美子『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』角川学芸出版、2010年 ISBN 978-4047034815 pp.76-85
- ^ 安井重雄「『千五百番歌合』定家判詞について」(浅田徹・藤平泉『古今集 新古今集の方法―和歌文学会論集』笠間書院、2004年 ISBN 978-4305401151)
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