鎌倉文士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 06:10 UTC 版)

鎌倉文士(かまくらぶんし)は、神奈川県鎌倉市に住む(あるいは住んでいた)文学者の総称。
1889年、横須賀線の開通により、東京の通勤圏内となった。同時に、東京の出版社からも行き来が便利になったため、鎌倉にはこのころから文学者が住み始めた。特に昭和初期以降、関東大震災で壊滅状態となった東京から、文学者の一部が東京に比べて好環境な鎌倉に移住した。ただし関東大震災では、鎌倉もまた大きな被害を受けていた。大震災後、埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区・南区周辺)は鎌倉と並んで文化人が多く居住することで有名だったことから、この頃から「鎌倉文士に浦和画家」という言葉が生まれた。
1945年5月1日、川端康成や久米正雄、高見順や大佛次郎たちが貸本屋「鎌倉文庫」を興した[1]。しかし、現在では文士という語が死語になると共に、鎌倉文士という語も死語になってしまった。21世紀に入ってから、複数の有名作家が鎌倉に移住して40年ぶりに鎌倉ペンクラブ(会長はかまくら春秋社代表の伊藤玄二郎)が復活し、新鎌倉文士と呼ばれる人種が誕生したものの、鎌倉在住の高名な文学者はかつてほど多くはない。
鎌倉文士の一覧(一時居住者も含める)
あ行
- 芥川龍之介(1916年から1917年まで由比ガ浜に下宿。1918年から1919年まで大町に居住[2])
- 鮎川哲也(極楽寺)
- 有島生馬(少年期を由比ガ浜で過ごす。1920年から1974年に没するまで稲村ヶ崎に居住[2])
- 安西篤子
- 石塚友二 (1945年から1986年に没するまで稲村ガ崎、極楽寺、植木、玉縄に居住[2])
- 井上ひさし(佐助)
- 江藤淳(1941年から1948年まで極楽寺、1980年から1999年に没するまで西御門に居住[2])
- 円地文子(材木座)
- 大岡昇平(1936年と1938年に扇ガ谷に下宿。1948年には雪ノ下に仮寓。1949年から1953年まで極楽寺に居住[2])
- 大下一真(瑞泉寺住職)
- 太田水穂(1934年扇ガ谷に「杳々山荘」を構え1939年から1955年に没するまで居住[2])
- 岡松和夫
- 荻原井泉水(1928年から佐助、扇ガ谷、材木座等に居住。1944年から1970年に没するまで山ノ内に居住[2])
- 尾崎喜八(1966年から1974年に没するまで山ノ内に居住[2])
- 尾崎左永子
- 大佛次郎(1921年から長谷、材木座に居住。1929年から1973年に没するまで雪ノ下に居住[2])
か行
- 海音寺潮五郎(1934年から1935年まで雪ノ下に居住[3])
- 葛西善蔵(1919年から1923年まで山ノ内に居住[3])
- 川上喜久子(浄明寺宅間ヶ谷)
- 川端康成(1935年浄明寺宅間ヶ谷に転入、のち二階堂に転居、1946年から1972年に没するまで長谷に居住[3])
- 蒲原有明(1919年雪ノ下に転入、1920年二階堂に転居。1923年関東大震災に遭遇して静岡へ移る。1945年戦災に遭い二階堂の旧居に戻り、1952年に没するまで居住[3])
- 菊岡久利(1947年佐助に転入。一時坂ノ下に移り、1954年から1970年に没するまで佐助に居住[3])
- 北洋
- 北畠八穂(1932年二階堂に転入、1948年から1982年に没するまで鎌倉山に居住[3])
- 木下利玄(1919年大町に転入、1920年大町内で転居し1925年に没するまで居住[3])
- 草間時彦(1920年から1931年まで扇ガ谷に居住[3])
- 国木田独歩(1902年2月から12月坂ノ下に居住[3])
- 久能啓二
- 久保田万太郎(1945年から1955年まで材木座に居住[3])
- 久米正雄(1925年から御成町、雪ノ下に住み、1930年から1952年に没するまで二階堂に居住[3])
- 胡桃沢耕史(1947年雪ノ下、1963年から1994年に没するまで二階堂に居住[3])
- 黒沼健(由比ガ浜)
- 小島政二郎(二階堂)
- 小林勇(1938年大町に転入、1941年から1981年に没するまで扇ガ谷に居住[3])
- 小林秀雄(1926年長谷に住む。1931年から由比ガ浜、扇ガ谷、雪ノ下に移り住む[3])
- 小牧近江(1925年から1978年に没するまで稲村ヶ崎に居住[3])
- 今日出海(1931年から小町、雪ノ下に住む。一時東京に転出して再び雪ノ下に戻り、1951年から1984年に没するまで二階堂に居住[3])
さ行
- 早乙女貢
- 佐佐木信綱(1921年大町に別荘「溯川草堂」を設ける[4])
- 佐藤正彰
- 里見弴(幼少期は由比ガ浜の父の別荘で過ごす。1924年から鎌倉の各所に住み、1953年から1983年に没するまで扇ガ谷に居住[4])
- 志賀直哉(雪ノ下)
- 四賀光子(1934年扇ガ谷に山荘を設け、1939年から1976年に没するまで居住[4])
- 澁澤龍彦(1946年から小町に住み、1966年から1987年に没するまで山ノ内に居住[4])
- 島木健作(1937年雪ノ下に転入、1939年から1945年に没するまで扇ガ谷に居住[4])
- 清水基吉
- 神西清(1934年から1957年に没するまで二階堂に居住[4])
た行
- 高橋和巳(1965年から1971年に没するまで二階堂に居住[5])
- 高橋源一郎
- 高浜虚子(1919年から由比ガ浜内で転居を重ね、1959年に没するまで居住[5])
- 高見順(1943年から1965年に没するまで山ノ内に居住[5])
- 高山樗牛(1901年から1902年まで長谷に居住[5])
- 竹山道雄(1944年扇ガ谷に転入、1949年から1984年に没するまで材木座に居住[5])
- 立原正秋(1950年大町に転入、その後市内各所に住み1970年から1980年に没するまで梶原に居住[5])
- 田村隆一(1970年材木座、1971年稲村ガ崎、1988年から1998年に没するまで二階堂に居住[5])
- 堂本正樹(小町)
な行
- 直木三十五(1928年、1929年ごろ稲村ガ崎に居住[6])
- 永井龍男(1934年から鎌倉に住み、何度かの転居を経て1953年から1990年に没するまで雪ノ下に居住[6])
- 永井路子(腰越)
- なかにし礼(山ノ内)
- 中野孝次(1950年から1952年にかけて大町、台、山ノ内に移り住んだ[6])
- 中原中也(1937年2月扇ガ谷に転入。同年10月に没する[6])
- 中村光夫(1933年から二階堂、1941年から稲村ヶ崎、1957年から1988年に没するまで扇ガ谷に居住[6])
- 中山義秀(1943年から1969年に没するまで極楽寺に居住[6])
- 長与善郎(1919年から大町、関東大震災に遭遇した1923年から由比ガ浜、次いで扇ガ谷に1926年まで居住[6])
- なだいなだ(山ノ内)
- 西尾正(材木座)
- 西脇順三郎(大町)
- 昇曙夢(1927年から1958年に没するまで稲村ガ崎に居住[6])
は行
- 萩原朔太郎(1916年と1917年に坂ノ下の旅館に滞在、1925年から1926年材木座に居住[7])
- 林房雄(1932年大町に転入。一時伊豆に移る。1936年から1975年に没するまで浄明寺に居住[7])
- 林不忘(1926年材木座に住み、その後1935年に没するまで笹目、雪ノ下に移り住んだ[7])
- 氷川瓏
- 久生十蘭(1947年から1957年に没するまで材木座に居住[7])
- 広津和郎(1916年に坂ノ下に転入、その後も居を変え、1919年から1923頃までは小町と東京を往き来した[7])
- 深田久弥(1932年から1946年まで二階堂に居住[7])
- 舟橋聖一(腰越)
- 北条秀司(1949年山崎に転入、1954年から1996年に没するまで岡本に居住[7])
- 保坂和志
- 星野立子(1910年から由比ガ浜に住み、1925年に結婚後は東京で暮し、1931年から由比ガ浜、1941年から1984年に没するまで笹目町に居住[7])
- 堀口大學(1932年夏、長谷に住む。由比ガ浜の父の別荘にもたびたび滞在した[7])
ま行
- 牧逸馬
- 真杉静枝(1943年に極楽寺に転入、1946年から1950年にも極楽寺に居住[8])
- 松本たかし(1925年に療養のため鎌倉を訪れる。1926年から1945年まで浄明寺に居住[8])
- 真船豊(1945年から1958年まで山ノ内に居住[8])
- 三木卓
- 三好達治(1938年から1939年、稲村ガ崎に居住[8])
- 村松梢風(1947年頃から1961年に没するまで西御門に居住[8])
- 村山知義(1945年から1949年まで長谷に居住[8])
- 森田たま(1944年から1952年まで鎌倉山に居住[8])
や行
- 山口瞳(1945年から1948年まで長谷の川端康成邸の隣に居住[9])
- 山崎方代(1972年から1985年に没するまで手広に居住[9])
- 山本道子(七里ガ浜)
- 横溝正史
- 吉井勇(幼少期を材木座の父の別荘で過ごす。1905年の転地療養を含め、坂ノ下、長谷など鎌倉に数回仮寓[9])
- 吉田健一(二階堂、西御門)
- 吉田秀和
- 吉野賛十
- 吉野秀雄(1925年七里ガ浜に転地療養、長谷の借家に移り1926年まで居住。1929年にも滞在し、1931年から1967年に没するまで小町に居住[9])
- 吉屋信子 (1944年から長谷の別荘に疎開。1950年に東京に移り、1962年から1973年に没するまで長谷に居住[9])
わ
新鎌倉文士の一覧(一時居住者も含める)
関連項目
- 馬込文士村 - 背景が類似する概念
- 鎌倉カーニバル - 1937年に鎌倉文士らが立ち上げたカーニバル
- 鎌倉アカデミア - 1946年に鎌倉在住の画家や演劇家らが設立した「鎌倉文化会」が母体となって開校した私立学校[10]
- 文士劇
- いしいひさいち - 「文豪春秋」シリーズには文壇の重鎮で鎌倉在住の小説家が登場する
- みのもんた - 鎌倉に居住歴あり[11]
出典
- ^ 赤羽根龍夫『作家のこころを旅する 鎌倉文学散歩』冬花社、2014年2月4日、181頁。ISBN 978-4-925236-93-5。
- ^ a b c d e f g h i “主なゆかり文学者 あ行”. 鎌倉文学館. 2023年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “主なゆかり文学者 か行”. 鎌倉文学館. 2023年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
- ^ a b c d e f “主なゆかり文学者 さ行”. 鎌倉文学館. 2023年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g “主なゆかり文学者 た行”. 鎌倉文学館. 2023年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “主なゆかり文学者 な行”. 鎌倉文学館. 2023年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “主なゆかり文学者 は行”. 鎌倉文学館. 2023年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g “主なゆかり文学者 ま行”. 鎌倉文学館. 2023年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
- ^ a b c d e “主なゆかり文学者 や行”. 鎌倉文学館. 2023年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
- ^ “【神奈川の記憶】(25)鎌倉アカデミア 創立70周年”. 朝日新聞デジタル. 2017年5月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
- ^ “みのもんたさん「17億円大豪邸」の内部事情 「敷地は3000坪」「お風呂からは江の島と富士山が見える」”. デイリー新潮. 2025年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
外部リンク
鎌倉文士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:59 UTC 版)
鎌倉文士とは、神奈川県鎌倉市に住む(あるいは住んでいた)文学者の総称。早くから横須賀線が通り、東京の出版社へのアクセスも良かった鎌倉は、多くの文学者や美術家・芸術家に好まれた。夏目漱石、芥川龍之介、国木田独歩、川端康成、大佛次郎をはじめとする文人らが鎌倉に住み、あるいは鎌倉を舞台とした作品を残している。 鎌倉ペンクラブは1933年(昭和8年)設立と言われている。1938年(昭和13年)当時の会員には林房雄、大仏次郎、大森義太郎、大岡昇平、太田水穂、川端康成、横山隆一、中里恒子、野田高梧、山本実彦、山田珠樹、今日出海、小杉天外、小林秀雄、小牧近江、里見弴、三好達治、島木健作、神西清らの名前があり、1961年(昭和36年)に解散をしている。その後40年を経て2001年(平成13年)に第二次鎌倉ペンクラブが三木卓を会長として設立された。新鎌倉文士と呼ばれる複数の有名作家が鎌倉に移住したが、養老孟司は移住者ではなく生まれも育ちも鎌倉である。鎌倉文士の一覧については、リンク先を参考のこと。
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