鎌倉攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:26 UTC 版)
詳細は「鎌倉の戦い」および「東勝寺合戦」を参照 5月8日、新田義貞が上野国生品明神で挙兵した。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。新田氏の声望は当時さほど高くはなかったが、鎌倉時代を通して源氏の名門と認識されていた足利氏の高氏(尊氏)の嫡子千寿王(後の足利義詮)が合流したことにより、義貞の軍勢は勢いを増し、新田軍は数万規模に膨れ上がったと伝わる。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、御家人らの離反も相次ぎ、小手指ヶ原の戦いや分倍河原の戦いで敗退し、幕府勢は鎌倉へ追い詰められた。 新田軍は極楽寺坂、巨福呂坂、そして義貞と弟脇屋義助は化粧坂の三方から鎌倉を攻撃した。しかし天然の要塞となっていた鎌倉の切通しの守りは固く、極楽寺坂では新田方の大館宗氏も戦死した。戦いは一旦は膠着し、新田軍は切通しからの攻略を諦めたが、新田義貞が海岸線(稲村ヶ崎)から鎌倉へ突入した。執権北条守時(第16代執権)や北条基時(第13代執権)ら幕府要人が戦死・自害した市街戦ののち、生き残った得宗家当主北条高時(第14代執権)や北条貞顕(第15代執権)ら幕府の中枢の諸人総計800余人は5月22日、北条氏の菩提寺であった東勝寺において自害した(東勝寺合戦)。
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