足利義詮
(千寿王 から転送)
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時代 | 鎌倉時代末期→室町時代前期(南北朝時代中期) |
生誕 | 元徳2年6月18日(1330年7月4日) |
死没 | 貞治6年12月7日(1367年12月28日)[1] |
改名 | 千寿王(幼名)→義詮 |
戒名 | 宝筐院殿道権瑞山[2] |
墓所 | 神奈川県鎌倉市浄妙寺光明院[3] 神奈川県鎌倉市瑞泉寺[3] 神奈川県鎌倉市円覚寺黄梅院[3] 京都府京都市右京区嵯峨野の宝筐院 伝・静岡県三島市川原ヶ谷の宝鏡院 |
官位 | 従五位下、左馬頭、従四位下、左近衛中将、従三位、征夷大将軍、正二位、権大納言、贈従一位左大臣 |
幕府 | 鎌倉幕府→室町幕府 第2代征夷大将軍 |
主君 | 足利尊氏、後光厳天皇 |
氏族 | 足利氏(足利将軍家) |
父母 | 父:足利尊氏、母:赤橋登子 |
兄弟 | 竹若、直冬、義詮、基氏、鶴王ほか |
妻 | 正室:渋川幸子 側室:紀良子 |
子 | 千寿王、義満、満詮、柏庭清祖、廷用宗器、宝鏡寺殿 |
足利 義詮(あしかが よしあきら、元徳2年6月18日〈1330年7月4日〉 - 貞治6年12月7日〈1367年12月28日〉)は、室町時代(南北朝時代)の室町幕府第2代征夷大将軍(在任 : 延文3年(1358年)12月8日-貞治6年(1367年)12月7日)[4]。初代将軍足利尊氏の三男[注釈 1]。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室・赤橋登子(登子の子としては長男)。姓名は源義詮である。
父尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した際、幼少ながらも新田義貞の鎌倉攻めに参加。貞和5年(1349年)に室町幕府で内紛が起こると、鎌倉から上洛し中央政権の政務に関わるようになる。観応2年(1351年)、尊氏が失脚した直義を追い鎌倉に出陣すると、義詮は京の留守を任せられたが、翌年閏2月南朝によって幕府が支援する北朝の三人の上皇を拉致される。しかし、同年中には後光厳天皇の擁立に成功する。この時期から尊氏が帰京する文和2年(1353年)9月まで、尊氏が東国、義詮がそれ以外の地域を分割統治した。
延文3年(1358年)4月に尊氏が死去すると家督を継承、同12月には征夷大将軍に就任する。有力諸将の向背が定まらないなかで、将軍の親裁権の整備、半済令や寺社本所領保護などの政策を進め、その後の室町幕府や足利将軍家の基盤を作った。貞治6年12月、いまだ幼い嫡男義満の後見を細川頼之に託し38歳で死去した。
生涯
幼少時から将軍就任まで
元徳2年(1330年)6月18日に誕生[6]。父は足利尊氏(当時は高氏)、母は鎌倉幕府の執権であった赤橋守時の妹登子[7]。幼名は千寿王[5]。義詮が誕生した時には既に兄が二人いたが、登子が尊氏の正妻であったため、義詮が嫡男にされたと考えられている[8][5]。
正慶2年(1333年)、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・高氏が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留め置かれた[8]。高氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略した時には、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、父の名代として新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した[9][7]。有力御家人であった足利氏の嫡男千寿王の参加は、関東で様子を窺っていた東国武士の参戦を促したとされる[9][10]。鎌倉幕府の滅亡後も細川和氏、同頼春、同師氏などの支えを得て鎌倉に滞在し戦後処理にあたった[11][12]。この時、新田義貞との間でその主導権争いがあったとされる[11][13]。建武の新政では、叔父の直義に支えられて鎌倉に置かれるが、この時代の義詮の動向については史料が乏しい[14]。建武2年(1335年)4月7日に千寿王は従五位下に叙されており、この頃には清和源氏の通字である「義」字を上の一字に用い、「義詮」と名付けられていたと考えられている[15]。
貞和5年(1349年)8月、かねてより足利直義と対立していた高師直がクーデターを起こし直義が失脚、その際に結ばれた直義と師直との和約には、直義から義詮への政務の移譲が盛り込まれた(観応の擾乱)[16]。そのため義詮は同年10月に鎌倉から上洛し、直義が政務を行っていた三条坊門第に入った[17]。当初直義と義詮との共同執政が予定されていたが、師直の圧力により直義は政務を完全に義詮へ譲り出家することとなった[18]。この時期、義詮は所務沙汰(所領裁判)関係の下知状と御判御教書[注釈 2]を発給しており、直義から所務相論の裁許権を引き継いだと考えられている[20]。
観応元年(1350年)6月、尊氏に追われ九州に逃げていた足利直冬が勢力を拡大、幕府から討伐軍として高師泰が西国に派遣された[18]。しかし、情勢は休まらず、同年10月に尊氏が師直を引き連れ自ら出陣した[21]。この時、義詮は京の留守を任せられた[18][21]。同月27日、直義が京を脱出し大和に向かい、続いて河内国に入り師直らの誅伐を呼びかけ挙兵した[18]。多くの武将が直義方につき入京し、孤立した義詮は征西途中で軍を引き返した尊氏に合流した[22][23]。その後、観応2年(1351年)2月17日、尊氏軍は摂津打出浜で敗北、同月26日に師直以下の高一族が直義方によって殺害された[24]。
師直排除に成功した直義は幕政に復帰し義詮とともに政務を担うようになるが、義詮との関係は良くなかったとされる[23]。同年8月1日には直義は北国へ逃れ、その後鎌倉に入った[25]。11月には尊氏が直義派に対抗するため南朝に降伏し、年号を南朝の「正平」に統一する正平一統が行われる[26]。義詮は南朝との交渉に積極的に関わり、南朝への降伏に等しい和睦条件に不満な尊氏を説得し、和議の成立に貢献したとされる[27][28][注釈 3]。義詮は尊氏が鎌倉へ直義追討に出向く間、京の留守を任せられた[30]。
観応3年(正平7年/1352年)閏2月、和議を破棄した南朝方の北畠親房・楠木正儀らが京へ侵攻。義詮は京を逃れて近江国へ避難したが、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇および廃太子の直仁親王は南朝方に奪われた[31]。義詮は観応の年号を復活させると共に、南朝の和議破棄を喧伝し、兵を募って京を奪還した[32]。皇位の指名権を持つ上皇と三種の神器を奪われた状況の中、義詮は広義門院(西園寺寧子)を治天の君に見立てて無理に皇嗣を指名させ、後光厳天皇の即位を実現させた[33][34]。文和2年(1353年)6月、南朝方に与した足利直冬が上洛。義詮は後光厳と共に美濃小島に逃れるも、同年9月、鎌倉から帰還した尊氏と合流し、京を奪還した[35][36]。文和4年(1355年)1月、直冬・山名時氏らを中心とする南朝勢力が再上洛。義詮は播磨に出陣中であったが、近江に逃れた尊氏と共に京の直冬勢力を挟撃。ひと月ほどの戦闘の末に撃退に成功した[37]。
将軍就任後

延文3年(1358年)4月30日に尊氏が没し、12月に義詮は征夷大将軍に任命される[38][39]。既に延文元年(1356年)頃から、それまで尊氏が行っていた袖判下文[注釈 4]による所領諸職の安堵を義詮が行うようになっていた[41]。また、所務沙汰(所領裁判)を担っていた引付方が機能停止し、所務沙汰遵行命令が義詮の御判御教書や執事奉書[注釈 5]でなされるようになる[41]。義詮の地位と権限を分析した小要博は、この時期、尊氏が体調を崩していたため、徐々に政務や権限が義詮に委譲されていたとし、それに伴い幕政改革が行われ、義詮の親裁時代に入ったと指摘している[43]。この間に義詮は訴訟制度の整備に着手し、将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)[39][注釈 6]。
延文3年8月22日、側室の紀良子との間に、後に3代将軍となる義満が誕生した[45]。
この頃には中国地方の山名氏や大内氏などが向背定まらず、九州では懐良親王などの南朝勢力は健在であった[46]。幕府内でも延文6年(1361年)、執事(のちの管領)の細川清氏ら諸将と対立した仁木義長が南朝へ降り[47][48]、さらに清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降るなど権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった[48][49]。
貞治2年(1363年)春には大内弘世・山名時氏が幕府に帰参し、中国地方がほぼ平定され、政権は安定し始める[50][51][注釈 7]。同年には義詮の執奏により、二条為明に勅撰和歌集『新拾遺和歌集』の撰進を命じる、後光厳天皇の綸旨が下されている[55]。貞治4年(1365年)2月、義詮は三条坊門万里小路の新邸に移った[56]。
他方、細川清氏や畠山国清が滅ぼされた後の貞治元年(1362年)7月[57]、義詮は清氏失脚の後は空席となっていた執事職に、足利一門最高家格の斯波氏から斯波義将を就任させた[58]。当時の義将は13歳で、実権は父の高経が握った[59]。この時代には引付などの幕府機構や幕府財政の再建が行われ、将軍権力の回復が目指されたとされる[60][61]。貞治4年8月ごろには南朝との講和も進んでいたとされる[62]。
しかし貞治5年(1366年)8月になると、義詮は近江守護の佐々木氏頼を京に召還し、諸将に高経討伐の指示を出す一方、高経に対しては「急ぎ本国の越前に下向せよ、きかなければ誅伐する」という京からの退去命令を下した[63]。これを受け高経は義将の他、幕府の要職に就いていた一族を引き連れ越前国へと退去・失脚した(貞治の変)[63]。斯波氏の没落については、佐々木道誉を中心とする有力大名による勢力争いや、高経と対立していた興福寺による圧力が関係していたとされる[64][65]。高経の没落後、義詮は幕府内の高経派の吏僚を改替し、斯波氏によって押妨されていた寺社本所領(寺社・公家領の荘園、公領など)を返付するなど、寺社本所領保護政策を進めた[66][67][68][注釈 8]。
貞治6年(1367年)9月、義詮は讃岐国から細川頼之を上洛させた[70]。同年11月、頼之を管領に任じ、幼少の嫡男・義満を託した。同年12月7日に病のため死去[70]。享年38[2]。死の間際には天龍寺の春屋妙葩と、等持寺の黙庵周諭が盥漱などの心身を清める仏事を行い、義詮を看取った。遺骨は鎌倉の浄妙寺光明院に納められ、同じく鎌倉の瑞泉寺と円覚寺黄梅院も分骨を許可された。その他の寺は義詮の遺命にないとして、分骨を許可されなかった[注釈 9]。
政策

義詮が本格的に幕政へ参入した契機は、叔父直義の地位や権限を引き継いだ観応の擾乱以降のことだとされる[73]。貞和5年(1349年)10月に鎌倉から上洛した義詮は、それまで直義が居住し幕府政庁として機能していた三条坊門第に入り、所領裁判などを統括するようになった[74][73]。また、尊氏と同様に軍事的権限の行使(軍勢催促状や感状の発給)、袖判下文による所領諸職の宛行、安堵や所務沙汰の遵行命令も行うようになった[75]。ただし、軍事面では依然として尊氏が主導的な役割を担っていた[76]。
尊氏が東国に下向すると、尊氏は東国以北、義詮は信濃・越前や畿内周辺から九州までを分割統治するようになった[77]。尊氏・義詮による東西分割統治は、文和2年(1353年)9月に尊氏が京に帰還するまで続いた[78]。尊氏上洛後も義詮は山城国の管轄権および命令権を保有し、幕府の直轄軍や侍所との関係が強化された[79]。小要博によれば、この時期も尊氏が依然として軍事的な権限を担っていたが、一方で幕府機関の運営は義詮が主導するようになったとされる[80]。
義詮期に成立した機関に「御前沙汰」がある[81]。御前沙汰は義詮独自の命令系統であり[82]、所領押領の訴えを受けた際などに、義詮の御判御教書によって、守護に対し押領の排除など所領支配の回復を命令した[81][83]。それまで所領関係の相論を扱う機関としては引付方が存在したが、引付方では訴人(原告)の訴えを受けた後に相手側(論人)の弁論も受け、その理非を審議した一方、御前沙汰では通常そのような理非の審議は行わず、訴えを受けるとそのまま訴人の所領支配の回復を命じる御判御教書が発給された[84]。山家浩樹によれば、引付方は観応2年(1351年)7月ごろに同機関を管轄した直義が京から逃れたことにより活動が停止[44]、その後一時的に復活することもあったが[82]、訴訟においては御前沙汰の下位に置かれ形骸化していったとされる[85]。御前沙汰は内乱下で武士による寺社本所領の押領が増加する状況で、訴人の大部分を占めた公家や寺社などの諸権門を保護する目的を持っていた[86]。また、義詮は訴訟受理の窓口となる「申次」に評定衆という法曹官僚の家柄の人物をあてることで、各権門から義詮へと「下意上通の機会を制度的に保障」した[87]。この裁判は引付でなされたような、慎重ではあるが費用や時間がかかる訴訟手続きと比べて、迅速に訴人の要求を実現でき、さらに守護配下の武士による押領を抑える点で将軍権力を確立させるものだとされている[88]。一方で、家永遵嗣によれば、義詮期において理非糺明を行う訴訟機関としては仁政沙汰が存在しており[89]、仁政沙汰においても「申次」が義詮と訴人との間の交渉を担うなど重要な役割にあったとされる[90]。
観応3年(1352年)7月に出された半済令も、義詮が主導した政策だとされる[91]。半済令は戦乱の中で守護が庄園・国衙(公領)領に対し恣意的に得ていた兵糧米の徴収率を公定したものであり、庄園・国衙領からの年貢を半分は領主側に、半分を兵糧にあてた[92]。義詮による観応3年(1352年)7月の半済令は近江・美濃・尾張国、翌月には伊勢など畿内周辺ほか五か国を対象にして1年の半済を認めたものだった[93][94]。伊藤俊一はこの法令により守護には大きな権限が与えられ、守護の得る権益が拡大したため、その後諸大名による守護職の争奪が強まったことを指摘している[93]。吉田賢司によれば、半済はその後も他の国に拡大され、室町時代の国制を規定したとされる[94]。
半済は無秩序な兵糧徴収や押領を制限する目的を持っていたが、実際には庄園・国衙領の半分以上が兵糧料所となった[95]。そこで寺社本所領の保護を目指す半済令が文和4年(1355年)8月、延文2年(1357年)9月に出されるも、徹底されなかったとされる[96]。しかし、松永和浩は延文2年9月の半済令を将来的な半済停止に備える法令として捉え、それまでの内乱による戦時体制から平時に向けた過渡的な政策と評価している[97][98]。さらに貞治年間(1362年 – 1368年)に入ると、国ごとに寺社本所領の半済分返付が目指され、義詮の最晩年に当たる貞治6年6月には山城国で半済停止令が出されるなど、内乱期に形成された軍事体制の解除が進んでいたとされる[99][100]。貞治の政変により斯波高経が失脚した際には、義詮は斯波氏領国にあった寺社本所領の保護を進め半済を停止するなど、政変を寺社本所領保護政策に利用した[68]。
また、内乱が落ち着き始める貞治年間には、足利将軍家と北朝朝廷との関係が深まったとされる[101]。石原比伊呂は、この時期に義詮が自身を北朝公家社会の秩序や故実に位置づけようとしていたとし[102]、足利将軍家の公家化に貢献したと指摘している[103]。さらに、義詮は北朝天皇との交渉や直接の対面機会を武士の中で独占し[104]、足利将軍家が他の有力大名とは隔絶した地位にあることを明確化したとされる[105]。
人物・評価
古典『太平記』では、他者の口車に乗りやすく「人の意見に流されやすい人」と評価しているが[106][107][23]、義詮が室町幕府や足利将軍家に対して果たした役割については再評価も進んでいる[108]。伊藤俊一は、半済令を出し守護の成長を促しつつも、寺社本所領保護政策によって朝廷・寺社勢力の保護を行った義詮の政治的感覚は非凡であったとし、内乱や政争により疲弊した室町幕府の再生に貢献したことを評価している[109]。吉田賢司も、義詮がその時々で実施した政策が、義満以降の室町幕府の基本構造になったと評価している[110]。訴訟制度においても、義詮の親裁は、その後の将軍親裁や管領制度の原型になったと指摘されている[111]。
さらに斯波氏の一時失脚(貞治の変)に乗じて、寺社本所領保護政策を進めるなどの政治力も発揮している[68]。また義詮時代に大内弘世・山名時氏ら有力守護をはじめ、仁木義長や石塔頼房も幕府に帰参しており[62][53]、その治世に南北朝動乱をほぼ終熄させて幕府政治に安定をもたらしたことも無視できない[109]。『太平記』は、義詮が没し細川頼之が管領に就任する章で物語を終えている[112]。
官歴
※日付=旧暦
西暦 | 南朝 | 北朝 | 月日 | 内容 |
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1335年 | 建武2年 | 4月7日 | 従五位下に叙される[11]。 | |
1344年 | 興国5年 | 康永3年 | 3月16日 | 正五位下に昇叙[113]。 |
3月18日 | 左馬頭に任官[113]。 | |||
1346年 | 正平元年 | 貞和2年 | 12月3日 | 従四位下に昇叙[6]。 |
1350年 | 正平5年 | 観応元年 | 8月22日 | 参議に補任される、左近衛中将を兼任[6]。 |
1356年 | 正平11年 | 延文元年 | 8月23日 | 従三位に昇叙[6]。 |
1359年 | 正平13年 | 延文3年 | 12月8日 | 征夷大将軍に任ぜられる[6]。 |
1359年 | 正平14年 | 延文4年 | 2月4日 | 武蔵守兼任[6]。 |
1363年 | 正平18年 | 貞治2年 | 1月28日 | 権大納言に転任[6]。 |
7月29日 | 従二位に昇叙。権大納言如元。 | |||
1367年 | 正平22年 | 貞治6年 | 1月5日 | 正二位に昇叙[6]。 |
12月7日 | 死去。 | |||
1368年 | 正平22年 | 貞治6年 | 12月30日 | 贈従一位左大臣[114]。 |
墓所・肖像画・木像
- 墓所
- 諡名は宝筐院殿。法名は瑞山道権[115]。墓所は嵯峨宝筐院[116]。また、静岡県三島市川原ケ谷の地福山宝鏡院にも義詮のものと伝える位牌がある[117]。足利将軍家と仏教寺院の関わりを研究している研究者の高鳥廉によれば、元々義詮の香火所(祖先の墓碑を安置する菩提所)は存在してなかったが、足利義政の時代にかつて義詮が崇敬する黙庵周諭がいた善入寺(観林寺)が注目され、足利将軍家の庇護と引換に善入寺の施設が義詮の香火所に転用され、寺名も宝筐院と改称されたとされる[118]。
- 肖像画
- 宝筐院本(束帯姿。重要文化財)
- 記録上では義詮の画像はいくつか確認できるが、現在そう言い伝えられている作品は、これ以外ほとんど無い。同作品が発見され義詮像とされたのは意外に新しく、戦後になって日本史学者の赤松俊秀によって紹介されてからである[119]。しかし、宝筐院本の面貌表現を比較すると、等持院像やあるいは伝光能像よりも、安国寺にある尊氏像との共通性が感じられる。また、宝筐院は幕末に一時全くの廃寺になり、義詮像は大正8年(1917年)に宝筐院が再興された時に他からもたらされた蓋然性が高いことから、宝筐院本は義詮ではなく尊氏像である可能性が指摘されている[120]。
- また、美術史学者の米倉迪夫は、神護寺三像(国宝)の一つ「伝藤原光能像」について、足利義詮像とする説を唱えている。伝光能像の容貌が等持院像に酷似しており、共通の紙型を元に制作された可能性が高いことが根拠である[121][122]。また日本中世史家の黒田日出男は、米倉の論旨や当時の政治状況をふまえて、神護寺三像のうち特にセット性が明瞭な伝源頼朝像と伝平重盛像がそれぞれ足利直義像と足利尊氏像とすると、残りの伝光能像は義詮像としか考えられない、と論じている[123]。
- 木像
- 等持院像、鑁阿寺像、瑞泉寺像[124]
- 等持院像は、幕末に尊皇攘夷派により尊氏・義満の木像と合わせて三条河原に梟首されたことで知られる(足利三代木像梟首事件)。
伝説
楠木正行との関係
義詮の遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の善入山宝筐院)の楠木正行(楠木正成の長男で「小楠公」と尊称される)の墓の傍らで眠らせ給え」とあり、遺言どおり正行の墓(五輪石塔)の隣に墓(宝筐印塔)が建てられた、という伝説がある。
これは永和3年(1377年)4月に宝篋院第二世院主の呉渓が記したと称する記事に基づく[3]。しかし、南北朝時代を専門とする研究者藤田精一は、以下の点からこの伝説に疑問を投げかけている[3]。
- 記事の文体書風が南北朝時代のものと合わず、呉渓本人の著とは考えられない[3]。
- 自称呉渓の記事では楠木正行が正平3年(1348年)1月5日に黙庵周諭(宝篋院第一世院主)に参禅し、その翌日(6日)に戦死したとするが、史実としては1月5日中に四條畷の戦いで戦死しており、日付が一致しない[3]。
- 義詮が黙庵を崇敬しており、死の間際に何か後事を託したのは一次史料から確認できる(義堂周信『空華老師日用工夫集』[3])。ただし、自称呉渓の記事では、死のずっと前のある日、たまたま義詮と黙庵が正行の話題に及んだのを、黙庵が義詮の死後に思い出して遺言を実行したとしており、史実と状況が一致しない[3]。
- そもそも義詮の遺骨が納められたのは鎌倉浄妙寺光明院である(『空華老師日用工夫集』[3])。他に鎌倉瑞泉寺と円覚寺黄梅院は分骨を許可されたが、それ以外の寺は遺命にないとして分骨を却下されている(『空華老師日用工夫集』[3])。従って、善入山宝筐院に足利義詮の遺骨は存在しない[注釈 10]。
系譜
足利義詮の系譜 |
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足利義詮が登場する作品
- テレビドラマ
脚注
注釈
- ^ 足利竹若、足利直冬という2人の庶兄に次いで三男とされる[5]。
- ^ 御判御教書は書止め文言が「状如件」で終わり、室町殿(将軍)による花押、あるいは署判が加えられ、室町殿が文書の発給者であることを明示したもの[19]。
- ^ この講和により北朝の崇光天皇、皇太子直仁親王が廃された[29]。
- ^ 文書の右部分(袖)に花押を記した下文[40]。
- ^ 執事が将軍の意を奉じて出した文書[42]。
- ^ 山家浩樹によれば、文和4年には既に御前沙汰が存在していたとされる[44]。
- ^ その他に、桃井直常の弟である桃井直弘が康安2年(1362年)、桃井直信が貞治2(1363年)・3年ごろ幕府へ帰参[52]。石塔頼房が貞治3年、仁木義長は貞治5年に幕府へ帰参した[53][54]。
- ^ 貞治6年7月に高経が没した後、息子の義将は赦免を受け同年9月には義詮と対面している[69]。
- ^ 義堂周信『空華老師日用工夫集』より[3]。
- ^ 宝筐院が義詮の菩提所となった経緯については、髙鳥廉「嵯峨宝篋院の成立と泰甫恵通の動向 - 足利義詮菩提所考 - 」(『足利将軍家の政治秩序と寺院』吉川弘文館、2022年、初出2017年)を参照。
出典
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- 吉田賢司 著「第二代 足利義詮 – 不屈のリアリスト」、榎原雅治、清水克行 編『室町幕府将軍列伝』戎光祥出版、2017年。 ISBN 9784864032476。
関連項目
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