鎌倉占拠後における足利氏との確執とは? わかりやすく解説

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鎌倉占拠後における足利氏との確執

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)

新田義貞」の記事における「鎌倉占拠後における足利氏との確執」の解説

鎌倉陥落させた義貞は、勝長寿院本陣敷いた一方足利千寿王二階堂永福寺布陣した。鎌倉陥落後ほどなくして、義貞は後醍醐天皇幕府打倒した旨を伝え使者を送らせたという説もある。 鎌倉占拠してしばらく、義貞は戦後理に奔走した各々武将が義貞へ軍忠状着到状提出し、義貞はそれに対して証判書いた諸将への宿の割り当てや、兵卒喧嘩仲裁北条残党追捕にも尽力した5月28日には執事船田義昌高時嫡男北条邦時捕らえ翌日斬首している。 7月に入ると、義貞に矢継ぎ早に提出されていた軍忠状着到状が突然途絶える後醍醐天皇京都潜幸し、論功行賞が行われることを知った諸将が、次々と上洛してしまったためであった。更に、無官新田小太郎であった義貞よりは、従五位上治部大輔であった足利尊氏の方が武士の人気高く武士達は義貞の下ではなく尊氏の子である千寿王の下へ集った尊氏鎌倉陥落先んじて京都制圧したという功績も、武士達の尊氏への評価高め要因となった。他にも、三浦義勝など、足利関わり深い武士達が目立つ武勲挙げたことなどもあり、武士達は新田よりは足利へと接近していった。尊氏我が子支援する為、細川和氏・頼春・師氏の三兄弟派遣した鎌倉では、新田足利が、互いに手柄争って角逐する情勢呈してきた。 『梅松論』は、義貞が細川三兄弟諍い起こし鎌倉去って上洛するまでの経緯記述している。鎌倉街中武士同士騒擾起こった。それを鎮圧した細川三兄弟は、騒動起こした原因は義貞にあると判断し、義貞を詰問した。義貞は陳弁し、起請文提出した事態収束して程なく、義貞は軍勢引き連れ鎌倉去り上洛したというのが、梅松論伝える義貞上洛顛末である。 奥富敬之は、義貞はこの騒動為に鎌倉逗留したくてもいられなくなってしまい上洛した、峰岸純夫は義貞が対立の激化回避する為に譲歩して鎌倉去った指摘する。だが、『梅松論』は足利寄り記述が多い為、尊氏擁護するための潤色推測されるまた、鎌倉起こった騒擾については検証できる一次史料存在しない森茂暁は、『梅松論』におけるこの騒動とそれに伴う義貞に起請文提出鎌倉退去について、鎌倉攻め戦功著しいはずの義貞が、簡単に鎌倉退去してしまったのは、鎌倉落とした軍功が義貞よりも尊氏依拠するところが大きかった証であると言及している。田中大喜従来研究新田政義失脚以来新田氏嫡流足利氏嫡流従属してきた事実無視して、義貞と尊氏最初からライバルであったとする事自体問題があり、『梅松論』の記事も単に義貞に疑いかかったという話でしかなく、実際に尊氏の一配下同然であった義貞は尊氏対抗するような状況にはなかったとする契機こそ定かではないが、元弘3年1333年6月、義貞は鎌倉去り上洛した。義貞が鎌倉去った事で、鎌倉事実上足利統治することになり、影響力浸透させやすい土壌鎌倉形成された。これは武家政権である幕府再興伏線一つともなった

※この「鎌倉占拠後における足利氏との確執」の解説は、「新田義貞」の解説の一部です。
「鎌倉占拠後における足利氏との確執」を含む「新田義貞」の記事については、「新田義貞」の概要を参照ください。

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