鎌倉占拠後における足利氏との確執
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「新田義貞」の記事における「鎌倉占拠後における足利氏との確執」の解説
鎌倉を陥落させた義貞は、勝長寿院に本陣を敷いた。一方、足利千寿王は二階堂永福寺に布陣した。鎌倉陥落後ほどなくして、義貞は後醍醐天皇に幕府を打倒した旨を伝える使者を送らせたという説もある。 鎌倉を占拠してしばらく、義貞は戦後処理に奔走した。各々の武将が義貞へ軍忠状、着到状を提出し、義貞はそれに対して証判を書いた。諸将への宿の割り当てや、兵卒の喧嘩の仲裁、北条残党の追捕にも尽力した。5月28日には執事船田義昌が高時の嫡男北条邦時を捕らえ、翌日に斬首している。 7月に入ると、義貞に矢継ぎ早に提出されていた軍忠状、着到状が突然途絶える。後醍醐天皇が京都に潜幸し、論功行賞が行われることを知った諸将が、次々と上洛してしまったためであった。更に、無官の新田小太郎であった義貞よりは、従五位上治部大輔であった足利尊氏の方が武士の人気が高く、武士達は義貞の下ではなく尊氏の子である千寿王の下へ集った。尊氏が鎌倉陥落に先んじて京都を制圧したという功績も、武士達の尊氏への評価を高める要因となった。他にも、三浦義勝など、足利と関わり深い武士達が目立つ武勲を挙げたことなどもあり、武士達は新田よりは足利へと接近していった。尊氏は我が子を支援する為、細川和氏・頼春・師氏の三兄弟を派遣した。鎌倉では、新田と足利が、互いに手柄を争って角逐する情勢を呈してきた。 『梅松論』は、義貞が細川三兄弟と諍いを起こし、鎌倉を去って上洛するまでの経緯を記述している。鎌倉の街中で武士同士の騒擾が起こった。それを鎮圧した細川三兄弟は、騒動を起こした原因は義貞にあると判断し、義貞を詰問した。義貞は陳弁し、起請文を提出した。事態が収束して程なく、義貞は軍勢を引き連れ鎌倉を去り、上洛したというのが、梅松論が伝える義貞上洛の顛末である。 奥富敬之は、義貞はこの騒動の為に鎌倉に逗留したくてもいられなくなってしまい上洛した、峰岸純夫は義貞が対立の激化を回避する為に譲歩して鎌倉を去ったと指摘する。だが、『梅松論』は足利寄りの記述が多い為、尊氏を擁護するための潤色と推測される。また、鎌倉で起こった騒擾については検証できる一次史料は存在しない。森茂暁は、『梅松論』におけるこの騒動とそれに伴う義貞に起請文提出と鎌倉退去について、鎌倉攻めの戦功著しいはずの義貞が、簡単に鎌倉を退去してしまったのは、鎌倉を落とした軍功が義貞よりも尊氏に依拠するところが大きかった証であると言及している。田中大喜は従来の研究が新田政義の失脚以来、新田氏嫡流が足利氏嫡流に従属してきた事実を無視して、義貞と尊氏が最初からライバルであったとする事自体に問題があり、『梅松論』の記事も単に義貞に疑いがかかったという話でしかなく、実際には尊氏の一配下同然であった義貞は尊氏に対抗するような状況にはなかったとする。 契機こそ定かではないが、元弘3年(1333年)6月、義貞は鎌倉を去り、上洛した。義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになり、影響力を浸透させやすい土壌が鎌倉に形成された。これは武家政権である幕府再興の伏線の一つともなった。
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