奏状合戦と尊氏討伐の決定
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「新田義貞」の記事における「奏状合戦と尊氏討伐の決定」の解説
『太平記』によると、10月に尊氏は細川和氏を使者に立て、「君側の奸」として義貞を誅伐することを趣旨とした奏状を提出した。尊氏奏状はこのようなものであった。 義貞の鎌倉幕府に対する蜂起は、天皇への忠勤からではなく鎌倉幕府の使者を斬った罪を逃れるためにやむを得ず蜂起し、尊氏の六波羅制圧を知って朝敵追討を掲げたものであること 鎌倉幕府打倒は息子千寿王(義詮)に功績が大きく、その加勢を得るまで義貞は3度にわたり勝利を収めることもできず、帝の勝利に貢献しなかったこと 尊氏が北条残党の追討にあたっている間、義貞は都において公家達と結託して讒訴していること これらの根拠から、義貞を君側の奸でありと非難し、「大逆の基」であるから義貞誅罰を行うよう進言した。一方、義貞は、これらの非難に対して明確に反論した奏状をすぐさま提出した。義貞奏状は以下のようなものであった。 尊氏は名越高家の討死を契機に天皇方に寝返ったに過ぎない 義貞が綸旨を奉じて蜂起したのは5月8日、尊氏の六波羅制圧は5月7日であり、六波羅における勝利を翌日に知ることはできない。また、千寿王の参陣は取るに足らない 六波羅占拠後、専断により護良親王の部下を殺害したこと 鎌倉将軍府の成良親王をないがしろにし、無礼を働いていること 中先代の乱の際、東国8ヵ国の管領を賜ったのち、その後の勅裁を用いない 幕府討滅は護良親王の功績が大きいにもかかわらず、尊氏は数々の讒言で流刑にし、拘禁したのちに殺害したこと これらにより、尊氏にこそ非があると主張し、「天地の相容れざる罪」なので、尊氏、直義兄弟を逆賊として誅伐する許可を求めた。尊氏による義貞への非難は抽象的であるのに対し、それに対する義貞の反論は具体的で、なおかつ足利の護良親王殺害に言及していることもあって、義貞の奏状の方が朝廷に対しての説得力を持ちえたと考えられる。しかし、『太平記』における尊氏と義貞による互いの非難は、創作に過ぎないとの見方もある。 『太平記』では、この時坊門清忠が「八逆」の罪は軽くなく、護良親王の殺害が事実ならばその罪は免れがたい」とし、尊氏誅伐を促す発言をしたが、まだこの時点では護良親王殺害が明確になっていなかったため、そのまま朝議は終了したという。しかしその後、護良親王殺害に立ち会った女房の証言で、直義による親王殺害が事実と判明した他、直義が赤松則村、那須資宿、諏訪部扶重、広峯貞長、長田教泰、田代顕綱ら、諸国武士に義貞討伐を促す檄文を広範に送っていたことが判明する。信濃の市河近家、陸奥の伊賀盛光などに至っては呼応して挙兵した。 こうして、朝議は一気に尊氏誅伐の流れに向き、11月8日に天皇は義貞に尊氏・直義追討の宣旨を発する。この時、義貞は後醍醐帝から錦の御旗を賜った、と『太平記』は記述する。 奥富敬之は『太平記』におけるこれら一連の奏状合戦の記述から、未だ護良親王殺害が明確に知らされていない中で義貞が迅速にこれを察知したこと、弾劾状をつきつけられた時にまるであらかじめ弾劾状をつきつけられることが判っていたかのごとく、即座に反駁の奏状を提出できたことは、足利尊氏、直義兄弟の側近に新田側への内通者がいた可能性があると分析している。 なお、田中大喜はこの討伐軍の大将任命こそが、寛元2年(1244年)の新田政義の失脚以来続いてきた足利氏嫡流と新田氏嫡流の支配・従属関係を終焉させ、新田氏嫡流(新田義貞)が足利氏嫡流(足利尊氏)から「自立」した瞬間であるとしている。
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