奏状の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 04:03 UTC 版)
「承元の法難」も参照 この奏状の影響もあって、承元の法難(建永の法難)と称される法然師弟に対する弾圧がなされた。 奏状の出された元久2年(1205年)の12月19日、 頃年(このごろ)法然上人あまねく念仏をすすむ、道俗多く教化におもむく、而るに今彼の門弟の中に咎執の輩、名を専修にかるを以て咎を破戒にかへりみず、是偏に門弟の浅智により起こりて、かへりて源空が本懐に背く、偏執を禁遏の制に守るといふとも刑罰を誘論の輩に加ふるなかれ。 という宣旨が下された。悪いのは「門弟の浅智」であるとして、法然(源空)ら専修念仏を誘論した人びとを擁護する内容であった。これに対し、興福寺の衆徒らはいっそう激怒し、建永元年(1206年)、法本房行空と安楽房遵西の流罪を訴えた。同年2月、院宣が出されてこの両者の配流が決まったが、衆徒らはこの処分を不服とし、彼らの意を受けた興福寺の五師三綱らが摂政九条良経らに対して法然らの処罰を要請した(興福寺奏状の副状は本来はこの時の奏状であったとする)。 承元の法難の直接のきっかけは、同じ年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。 年明けて建永2年(1207年)に入るや、法然門下の僧侶は次々に逮捕され、峻厳な取り調べがなされて、拷問もおこなわれた。風紀をみだす専修念仏の徒とみなされた遵西は京六条河原で斬首され、住蓮も近江国で死罪に処された。他に法然門下2名(西意善綽房・性願房)が極刑に処された。法然の教団が民衆のあいだから起こって上下なく広がり、さらに全国的な展開を見せはじめたことについて、既成教団も為政者たる治天の君後鳥羽上皇も危惧の念をいだいたのである。 法然自身も責任を問われ、念仏は禁断され、法然および親鸞ら中心的な門弟7人は僧籍剥奪のうえ流罪に処された。法然は土佐国(のち讃岐国)に、親鸞は越後国に配流され、2人はふたたび現世で相まみえることはなかった。 法然はのちに帰洛をゆるされ吉水にもどり、その翌年の建暦2年(1212年)に東山大谷(京都市東山区)で入寂した。同年、華厳宗の高僧として著名であった高山寺の明恵上人高弁は、法然批判であり『選択本願念仏集』批判の書である『摧邪輪』(正しくは『於一向専修宗選択集中摧邪輪』)を著している。
※この「奏状の影響」の解説は、「興福寺奏状」の解説の一部です。
「奏状の影響」を含む「興福寺奏状」の記事については、「興福寺奏状」の概要を参照ください。
- 奏状の影響のページへのリンク