足利氏姫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 09:00 UTC 版)
足利 氏姫(あしかが うじひめ[1]/あしかがの うじひめ[2]、天正2年(1574年) - 元和6年5月6日(1620年6月6日))は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性。文献などでは「氏姫」、「氏女」と表記されることが多い[3] [4]。院号は徳源院。長く分裂して対立してきた古河公方家と小弓公方家を統合し、喜連川公方家への橋渡しをする役割を担った。
- ^ CD人物レファレンス事典日本編
- ^ kotobank.jp CD人物レファレンス事典日本編
- ^ 文献では「氏姫」の方が一般的。例えば、佐藤博信の『古河公方足利氏の研究』(175 - 191頁)では「氏姫」あるいは「古河氏姫」。『戦国人名辞典』の見出しは「氏姫」(165頁・足利を付さない)。黒田基樹の『古河公方と北条氏』(7, 33, 41頁)でも「氏姫」を使用。
- ^ 『喜連川判鑑』、『足利家通系図』には「氏女」と表記されている。『古河市史通史編』(223 - 230頁)では「氏女」を用いる。
- ^ 古河公方家と喜連川家の歴代当主の事跡や花押を収録した『喜連川判鑑』には、夫の国朝と共に氏姫の花押は掲載されていない。彼女の家督相続は形式的なものだったのか正式なものだったのかについては論争もあるが、事実上の相続だったことは否めない。
- ^ 文献上は破却とあるが、実際は立ち退きと考えられる。
- ^ 鴻巣・牧野地・原・伊賀袋や、渡良瀬川対岸の向古河など
- ^ 鷲尾政市 「古河公方の史跡を歩く」『古河の歴史を歩く 古代・中世史に学ぶ』 古河歴史シンポジウム実行委員会編、高志書院、2012年、186-187頁
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