幕藩体制と女性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
江戸時代初期には足利氏姫のような女性領主もいたものの、それ以降は旧来の開発領主的土地所有は否定され、封建的土地所有である幕藩体制となる。知行を与える権利は、大名旗本に対しては将軍、藩家臣に対しては大名が掌握する。また相続は知行の再恩給と位置付けられ、享保期以降に幕令で長子単独の相続が徹底される。男子がなく養子をとる場合にも筋目が重視され、男系優先主義が貫かれた。こうした状況で一部の例外を除き家督相続はもちろん所領の相続から女性が排除された。婚姻については私婚が禁止され、さらに享保期には無許可での婚姻が禁止される。中世に武家が政略結婚などにより、女性が家と家を繋いでいた役割は失われた。正室は人質として江戸に住み、世継ぎを絶やさぬために一夫一妻多妾制がとられる。また江戸時代後期には系図編纂から過去に存在した女性領主の存在が意図的に消される。 将軍家や大名家の内部においては「表」と「裏」に性別分業される。主人とその家族のそばで奉仕する女中は活動の場を奥に限定される。しかし奥も政治と無縁ではなく当家にとって重要な、後継ぎを養育する場であった。正室は自ら生母とならない場合も、側室の生んだ子や養子と養親関係を結び、養育の責任を負った。また表の年中行事などに際しては家臣から挨拶を受けて主従関係を構築する。江戸時代初期には奥女中は乳母を中心に名家出身であることも多く、春日局のように政治的に重要な役割を果たす女性もいた。17世紀半ばには奥女中の職制も進むが、鳥取藩の米田という女性が最下位の半下から最高位の年寄になったように出世も可能であった。待遇は俸禄こそ表の男性家臣団より低いものの、養子をとって家の相続を認められる例も少なくなかった。また幕府女中は30年以上勤めると生活に困らない手当が支給されていた。こうした奥が幕政、藩政の危機に直面し政治力を発揮する場面もあった。鳥取藩池田家では桂香院が世継問題で決定権を行使した。また幕末には天璋院が江戸城無血開城に際し江戸府中を静謐に保つよう命じている。
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