幕藩体制から廃藩置県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 22:29 UTC 版)
太閤時代、吉田城(豊橋市)中心に統一されていた東三河は、徳川家康の征夷大将軍就任以降、分割された。吉田城は吉田藩、田原城は田原藩、新城城は新城藩、牛久保城は幕府天領となった。また、第2代征夷大将軍には東三河の八名郡南部(豊橋市西郷校区辺り)を本拠地とする三河西郷氏(三河国守護代の西郷家と同族と言われる)の西郷局(お愛)の子徳川秀忠が継ぎ、征夷大将軍は世襲と成リ、戦国の面影は徐々に消えて行き天下泰平の江戸時代の安定期に入る。 明治維新を経て、明治2年(1869年)吉田藩は藩名変更を命じられ豊橋藩となった。廃藩置県を受け、豊橋藩は豊橋県に、田原藩は田原県になる。新城藩は一旦、伊那県に編入された。明治4年(1871年) 、旧三河国各県と旧尾張国知多郡は岡崎城辺りを県庁とする額田県に統合する。また、これに伊那県に入っていた旧新城藩も額田県に合流する。明治5年(1872年)大区小区制により、県の下に区(町村にあたるが、この区には現在の市町村と異なり自治権は無い)を設立した。
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