三河西郷氏とは? わかりやすく解説

三河西郷氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 01:27 UTC 版)

西郷氏」の記事における「三河西郷氏」の解説

三河西郷氏(「郷」の異体字「鄕」を用いて西鄕」とも書く)は、南北朝時代、後に細川清氏対立し南朝方に帰服したこともあった仁木義長その後三河国守護になったため、土岐頼忠の子西郷頼音が三河守護代に任じられたのが始まりとされている(上記菊池西郷氏および竹内家系統とする説は異論あり)。 室町時代には同国額田郡南部現在の愛知県岡崎市幸田町)で勢力があり、守護代なくなった後も三河残り有力な国人となった15世紀半ば三河国守護代西郷稠頼、そして、その子頼嗣により三河国岡崎城築城次第松平氏圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重大草岡崎松平家初代)を婿とする)となり屈服したまた、三河には戦国時代後期同国東部八名郡中でも遠江国との国境辺り領し月ヶ谷城愛知県豊橋市嵩山(すせ)町)、そして、五本松城西川城いずれも同市西郷校区)を居城とした西郷氏があり、守護代西郷氏同族とされている。 八名郡西郷氏は、16世紀駿河今川氏戦国大名として台頭するとこれに服した西三河松平清康台頭し、全三河従える勢いとなると松平氏服属し、1530年清康宇利城(現在の新城市)を攻めたときこれに従った。しかし、1535年清康横死森山崩れ)によって松平氏弱体化すると、今川氏に再属する。 永禄3年1560年)、桶狭間の戦い今川義元戦死し松平元康徳川家康)が岡崎城入って松平氏再興すると、西郷正勝次男の清員を人質出して家康従った。しかし遠江に近い西郷氏今川方の反攻さらされ永禄5年1562年)には、遠州宇津山城から朝比奈氏侵攻受けて正勝とその嫡男元正戦死したこのため西郷氏は幼い元正の子義勝継ぎ叔父の清員が後見した。 天正3年武田氏先遣秋山虎繁信友)が三河設楽郡南下侵攻してきた際、西郷氏菅沼氏設楽氏とともに戦ってこれを撃退するも、この戦いで義勝戦死した義勝の子はまだ生後まもなかったため、家康は清員の嫡男家員に西郷氏宗家を継がせた。なお、義勝の妻(西郷正勝外孫)は、のちに清員の養女として家康側室西郷局お愛)となり、徳川秀忠松平忠吉産んでいる。 西郷家員1590年徳川氏関東移封の際、下総国千葉郡生実現在の千葉県千葉市中央区)に5000石を与えられた。そして家員の子正員まさかず)のとき5000石を加増されて安房国東条藩1万石(現在の同県鴨川市東町)を立藩大名列したその後、寿員(ひさかず)のとき、1692年転封されて下野国上田藩1万石(現在の栃木県下都賀郡壬生町)の大名となったが、翌1693年5000石を収公され、子孫旗本として家名つないだ。 その他、清員の弟や従兄弟などが徳川御三家井伊氏戸田松平家会津松平家などに仕えている。とくに会津藩現在の福島県会津若松市)では家老をつとめ、幕末西郷頼母出した

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