三河西郷氏
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三河の西郷氏(「郷」の異体字「鄕」を用いて「西鄕」とも書く)は、南北朝時代、後に細川清氏と対立し南朝方に帰服したこともあった仁木義長がその後三河国の守護になったため、土岐頼忠の子の西郷頼音が三河守護代に任じられたのが始まりとされている(上記の菊池姓西郷氏および竹内家の系統とする説は異論あり)。 室町時代には同国額田郡南部(現在の愛知県岡崎市・幸田町)で勢力があり、守護代でなくなった後も三河に残り、有力な国人となった。15世紀半ば三河国守護代西郷稠頼、そして、その子頼嗣により三河国岡崎城築城。次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。 また、三河には戦国時代の後期に同国最東部の八名郡の中でも、遠江国との国境辺りを領し、月ヶ谷城(愛知県豊橋市嵩山(すせ)町)、そして、五本松城、西川城(いずれも同市西郷校区)を居城とした西郷氏があり、守護代西郷氏の同族とされている。 八名郡の西郷氏は、16世紀に駿河の今川氏が戦国大名として台頭するとこれに服した。西三河の松平清康が台頭し、全三河を従える勢いとなると松平氏に服属し、1530年に清康が宇利城(現在の新城市)を攻めたときこれに従った。しかし、1535年に清康の横死(森山崩れ)によって松平氏が弱体化すると、今川氏に再属する。 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、松平元康(徳川家康)が岡崎城に入って松平氏を再興すると、西郷正勝は次男の清員を人質に出して家康に従った。しかし遠江に近い西郷氏は今川方の反攻にさらされ、永禄5年(1562年)には、遠州宇津山城から朝比奈氏の侵攻を受けて、正勝とその嫡男・元正は戦死した。このため西郷氏は幼い元正の子・義勝が継ぎ、叔父の清員が後見した。 天正3年、武田氏の先遣・秋山虎繁(信友)が三河の設楽郡に南下侵攻してきた際、西郷氏は菅沼氏、設楽氏とともに戦ってこれを撃退するも、この戦いで義勝が戦死した。義勝の子はまだ生後まもなかったため、家康は清員の嫡男家員に西郷氏の宗家を継がせた。なお、義勝の妻(西郷正勝の外孫)は、のちに清員の養女として家康の側室西郷局(お愛)となり、徳川秀忠と松平忠吉を産んでいる。 西郷家員は1590年の徳川氏の関東移封の際、下総国千葉郡生実(現在の千葉県千葉市中央区)に5000石を与えられた。そして家員の子正員(まさかず)のとき5000石を加増されて安房国東条藩1万石(現在の同県鴨川市東町)を立藩、大名に列した。 その後、寿員(ひさかず)のとき、1692年に転封されて下野国上田藩1万石(現在の栃木県下都賀郡壬生町)の大名となったが、翌1693年に5000石を収公され、子孫は旗本として家名をつないだ。 その他、清員の弟や従兄弟などが徳川御三家や井伊氏、戸田松平家、会津松平家などに仕えている。とくに会津藩(現在の福島県会津若松市)では家老をつとめ、幕末に西郷頼母を出した。
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