三河野々山氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 15:43 UTC 版)
野々山敦材の長男・野々山政兼(初名甚九郎)を祖とする。吉田城の戦いで戸田氏から離反し今川氏に通じる。政兼と元政は今川義元家臣であったが、その後の桶狭間の戦いの混乱の中、今川家からも離反した。元政が離反した時期については確たる資料は無いが、永禄4年(1561年)に今川氏真が野々山四郎右衛門に対し逆心に同意しなかった事を顕彰する判物が存在する事と、姉川の戦いでは徳川軍として従軍した記録が残っている事から、1561年から1570年の間に徳川氏家臣となったと思われる。徳川氏家臣となった野々山氏は、野々山頼兼の時代に家康とともに江戸へ移住した。元政と同時期の人に勘介兼正と彌兵衛がおり、どちらも家康に使えているが系図を欠いているため政兼との血縁は不明である。江戸時代以降の有名な者は喜連川騒動で幕府御上使として派遣された野々山兼綱や、外国奉行野々山兼寛などがいる。
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