三河鉄道との合併計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:05 UTC 版)
「愛知電気鉄道」の記事における「三河鉄道との合併計画」の解説
西三河地方において多くの路線網を有し、愛電と競争関係にあった三河鉄道は、1927年(昭和2年)8月の新三河鉄道の設立に際して資本参加し、同社の保有した西加茂郡挙母町(現・豊田市)から名古屋市の東大曽根町(千種)に至る鉄道路線の敷設免許を事実上手中に収めた。また同年7月には岡崎市内において路線網を有した岡崎電気軌道を吸収合併し、岡崎 - 挙母 - 千種間を結び西三河地方と名古屋を直結する路線の敷設を構想した。 しかし、愛電が西尾鉄道の吸収合併および碧海電気鉄道の設立により幡豆地区に路線網を展開したことより、同地区においても事実上愛電と競争関係を持つこととなった三河鉄道の保有路線の営業成績は大きく影響を受けた。さらに同時期の経済不況の影響も加わって新三河鉄道の建設計画は凍結され、三河鉄道は業績好転が困難な状況に陥りつつあった。 この情勢下、愛電と三河鉄道は従来の対立関係を改めて協調関係を築くこととし、1928年(昭和3年)6月に愛電豊橋線の新知立 - 牛田間に分岐点(後の知立信号所)を新設、分岐点より三河鉄道線の知立駅に至る連絡線を開通させて貨物列車の相互直通運転を開始した。その後、愛電豊橋線の一ツ木から三河鉄道線の重原に至る連絡線など複数の連絡線の建設が計画されたが、同時期には協調関係からさらに踏み込んで両社の合併案が浮上、管轄省庁である鉄道省からも合併を推奨された。 合併には愛電・三河鉄道双方とも積極的であり、愛電の大株主であった東邦電力(名古屋電灯の後身)の神谷啓三の斡旋を受け、1930年(昭和5年)4月4日に合併契約が締結され、同年4月22日に開催された愛電の臨時株主総会において合併が承認された。この合併申請は1930年(昭和5年)7月3日に認可されたが、合併に関する事務手続き中途にて発覚した三河鉄道の保有資産に関する解釈を巡って両社の関係は急速に悪化し、合併手続きは中断された。その後、同年9月に愛電側より合併拒否を通告、翌1931年(昭和6年)6月24日に開催された愛電の定期株主総会において合併解消が可決されたことにより、合併案は消滅した。 交渉決裂後の両社の対立は以前にも増して先鋭化したと伝わるが、後年の交通統合によって三河鉄道は1941年(昭和16年)6月に愛電の後身である名古屋鉄道へ吸収合併された。
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