三河石川氏とは? わかりやすく解説

三河石川氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 08:51 UTC 版)

石川氏」の記事における「三河石川氏」の解説

戦国時代後期石川数正・家成を輩出した三河石川氏義時の子孫のうち、石川政康蓮如随行して三河流れ着き定住したのがはじまりという。また、三河守一色氏被官であったとの説もある。松平氏徳川氏)に仕え代々筆頭家老務めた。『柳営秘鑑』にある徳川最古参安祥譜代七家の一つであり、『新編岡崎市史』や『史學雜誌によれば石川家三河浄土真宗門徒総代立場にあったとされる。 数正は松平清康重臣・清兼の次男三河小川城(現安城市小川町間田)主・康正松平重吉の娘との間に生まれた家老として徳川家康仕え活躍したが、やがて羽柴秀吉の下に出奔しその家臣として大名となった。しかし、子孫秀吉死後江戸幕府開いた家康冷遇されまもなく改易処分となった。『石川系譜難波録』によれば数正の弟・石川清政の家が康正流の中で本家改易後旗本として残ったとされる。 家成は清兼の三男として生まれた。母は家康叔母にあたる水野忠政の娘・芳春院妙西尼で家康母方従兄にあたる。家康より「家」の字を偏諱として授かった数少ない武将一人であり家康関東移封前は徳川家先鋒として功績重ね東三河旗頭掛川城主等を務めた。家成系石川家譜代大名として明治維新まで存続した。石川家によれば、甥である数正は家成より一歳年長であったが、康正死後石川本家相続家康より家成は命じられとされる実際数正は家成が東三河旗頭退いた後に同旗頭引き継いだ。家成死去後嫡男・康通が先に死去していたことから大久保忠隣次男・忠総(家成の娘の子)が石川家継いだ。家成系石川家からは宗家である伊勢亀山藩、忠総の次男総長を祖とする常陸下館藩大名家として幕末まで存続した。旗本家としては忠総の四男・貞當系(大島大嶋石川家・7,000石)、忠総七男・総氏系(保久石川家・4,000石)・総長嫡子・総良の次男忠明系(4,000石)、家成次男・成次系(1,100石)などがある。 家成流以外でも清兼次男・一政系、石川政康の子より生じた康長系、重康系(石川又四郎家4,000石など)、正信系、吉久その他に多くの家が旗本として存続した。 なお、石川丈山石川左近重之)は『石川系譜難波録』によれば鎌倉時代末期から室町時代初期当主義忠次子・信茂の裔にあたる。

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