三河県出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 00:42 UTC 版)
明治元年(1868年)、暉皃は新政府が置いた三河県に出仕した。三河の判事として赴任してきた土肥大作と問答を交わした時、三河県の将来進むべき方向・復興策は何かと聞かれた暉皃が倹約と貯蓄による方策しかないと答えたことに対して、土肥は積極的に物産・殖産をはかるべきことを説いたのである。明治期暉皃の富国殖産中心の考え方に大きな影響を与えた。 明治2年(1869年)、三河県廃県後、暉皃は伊那県足助局に勤め、明治5年、60歳となった暉皃は伊那県を辞し、稲橋村へ帰った。帰村して早々暉皃は自らの資金を拠出して殖産・物産振興に役立てようと、足助局を離れる際、与えられた勤務中の倹約金として230円を物産振興と貧民救済に、さらに愛知県より借りた450円を原資に、茶の実を買って村民に分配しその栽培を奨励した。同時期に植林・産馬・養蚕、椎茸栽培の導入をも図った。
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