塚本の見解を踏まえた仮説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 12:26 UTC 版)
「大屋長太夫」の記事における「塚本の見解を踏まえた仮説」の解説
天野暢保(安城市文化財保護委員)は塚本の見解を受け、三河石川氏の出自や矢作川の整備の歴史、当時の領主であった松平正綱の行動などから長太夫の事件についての考察を『安城歴史研究』に記している。 天野は、15世紀に蓮如とともに小川村に移り、以降同地に住み着いたとする石川氏の出自が偽造であるとされることを指摘し、石川氏を14世紀以前より勢力を持つ土豪であったとした。また、同地付近に住む小松氏、都築氏、野村氏に関しても出自を遠方とする伝承があることを指摘し、大屋氏に関しても小豆坂の戦い以前から小川村に居住する中小名主であるとしている。 大屋氏と水害との関係については、1605年(慶長10年)に矢作古川から現在の矢作川へ流路が変更されたことで、西郷頼嗣による築堤や田中吉政による埋め立てが小向などの下流地域へ及ぼした水害の影響が消え、小向の水害が緩和された可能性を指摘している。これにより、事件は単に水害の激化による年貢軽減の懇願のみではなく、水害を口実とした年貢軽減の権利獲得などそれ以上の意図のもと行われたものと推定している。 また、小川村が1625年(寛永2年)から1725年(享保10年)まで玉縄藩領であったことに着目し、その間に藩主であった松平正綱とその子・松平正信の行動について考察している。天野は『寛政重修諸家譜』における正綱の記述のうち、1644年(正保元年)11月1日の記述である 「暇たまはりて三河の領地におもむく。このとき仰によりて鳳来寺ならびに大樹寺等にいたりこれを検す。」 — 『寛政重修諸家譜』 に注目し、鳳来寺・大樹寺を視察していることが幕府の命令によってであればあえて休暇を取って三河に訪問した理由が説明できないとして、それ以外に正綱自身が三河に赴かなければならなかった理由が存在したと推測している。また、その理由としてこのとき領地に不始末があった可能性を指摘し、それが原因であるとすれば正綱の訪問はその処理のためであったこと、ならびにその不始末が長太夫一件であった可能性を提示している。これによって、長太夫の直訴の対象は徳川家光ではなく領主・松平正綱であるとしている。
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