幕臣豊島氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 18:24 UTC 版)
泰経の子の康保が後北条氏に仕え、その子孫の経忠が武田氏次いで徳川氏に仕えて旗本になった。経忠の子の忠次は遠江国や近江国の天領代官となっている。忠次の孫の泰盈は豊島氏の事績を残すべく、「豊島氏系図」を編纂している。泰盈の家系はその後、幕末まで続いている。ただし、この旗本豊島氏と石神井豊島氏との系譜の信憑性については疑問とされている。 将軍家継の生母月光院に仕えた絵島の父が忠次の四男の家系(白井家)の旗本白井久俊である。絵島は大奥年寄となり権勢を振るったが、江島生島事件で流罪となり、その兄の勝昌は連座して死罪となった。 また、寛永5年(1628年)から正保2年(1645年)に伊豆諸島の八丈島の代官を務め、同地で溺死した豊島作十郎(豊島忠松)という人物がいたと伝わる。(海難法師項目参照。同伝説中では現地で殺害されたことになっている。)
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