幕藩体制と明律研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:45 UTC 版)
養老律令以後、日本では律令の編纂は行われなくなり、遣唐使の廃止によって中国律令の導入もなくなったが、中国ではその後も歴代王朝で律令の編纂や改訂が行われていた。江戸時代中期頃になると従来の幕藩法に欠けている分野を補完する目的で江戸幕府や諸藩の中で明王朝で使われた明律の研究が始められた。とりわけ1716年に将軍に就任した徳川吉宗は唐律・明律・清律など中国の法典研究に力を注ぎ、なかでも明律に熱心となり、奥坊主成島道筑に同書を講義させ、側近の儒者荻生北渓に訓点を施させた。1720年(享保5年)に著された『大明律例訳義』は吉宗の命令で紀州藩の儒者高瀬学山が書いた明律の研究書である。 幕末になると明律は各藩律の母法となった。 1870年(明治3年)から11年間の明治初期の日本で使用された「新律綱領」も明清律をモデルにしていた。しかし1881年(明治14年)の旧刑法導入によって、日本における古代以来の中国法系の刑事法制の歴史は幕を閉じ、西洋法系の近代的刑法典に転換される事になった。
※この「幕藩体制と明律研究」の解説は、「律令法」の解説の一部です。
「幕藩体制と明律研究」を含む「律令法」の記事については、「律令法」の概要を参照ください。
- 幕藩体制と明律研究のページへのリンク