南北朝動乱期
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建武元年(1334年)、建武の新政の功臣である名和長年の子義高が肥後国八代荘の地頭に任命されたが、翌建武2年(1335年)に地頭代として八代に下向した一族の内河義真が、球磨川河口を南に望む山麓に城を築いたのが始まりである。中世においては築城者の名前をとって「内河の城」と称されており、後の麦島城や松江城は存在していなかったことから、近世以前には八代城と言えば古麓城のことをさした。 延元元年/建武3年(1336年)、多々良浜の戦いに勝利して九州で再起した足利高氏は南朝の拠点である肥後国の諸城を攻めて、菊池城を落とし、次ぎに一色道猷をして古麓城(八代城)を囲ませた。義真は逃げ、古麓城には道猷・一色道長が城主として残された。しかし高氏が九州の軍勢と共に京に発つと、菊池武重は菊池城を奪還し、古麓城も攻略して一色氏は討ち死にした。延元2年/建武4年(1337年)、菊池武光に付き従われた懐良親王は、大将軍の地位を良成親王に譲り、征西府を隈府(菊池市)から八代に遷して、高田御所(こうだごしょ)を建てた。名和氏一族はこれを迎えて守護した。南北朝時代の八代近辺では、宇土を本拠とする名和氏が南朝側、人吉を本拠とする相良氏は北朝側で、両者はしばしば争っており、内河城を見張るための向城(むかいじろ)として西に萩原城が相良氏によって築城されたという記録がある。 観応の擾乱による北朝方の分裂があって、武光の時代に征西府は再び隈府に戻り、一時は太宰府の高良山に置かれ、南朝方には九州を席巻する勢いがあった。正平13年/延文3年(1358年)、本州での南朝方の形勢不利により、長年の孫名和顕興が八代に下向した。この顕興が居城としたのが「八丁嶽城」である。正平14年/延文4年(1359年)に筑後川の戦いで武光が少弐頼尚・大友氏時を破った後には九州の武士団は一時的ではあったが尽く南朝方になびき、北朝方には南九州(球磨・日向)の相良定頼など僅かな勢力が残っただけの時期があった。 ところが、九州探題今川了俊の登場でこれが一変した。了俊は次々と北朝方の勢力を回復し、永徳元年(1381年)に菊池氏の本拠地隈府城を再び陥れると、後征西将軍宮良成親王と菊池武朝は顕興を頼って八代に退いた。一転して八代を九州の南朝方の最後の拠点となるほどに追い詰められ、永徳3年/弘和3年(1383年)3月、(地元の伝承では八代で)懐良親王は崩御するが、突如として相良前頼が南朝側に味方したので、名和氏はなんとか持ち直して、今川氏の攻撃を度々はね除けた。しかし、元中8年/明徳2年(1391年)、了俊の子今川貞臣は宇土城を落とした余勢をかって、古麓城を包囲した。兵糧攻めにしつつ、杭瀬の顕興の居館を攻めて名和氏の郎党の多くを斬り、前頼の援軍が届かぬうちに飯盛城、丸山城、鞍掛城を落とし、詰城の八丁嶽城を包囲した。逃げ場を失った良成親王は講和して城から退去することに同意し、海路で筑後国八女郡に落ち延びたが、この時に顕興は幕府方に降って所領を安堵されている。 翌年、明徳の和約で他の地域では概ね南北朝の動乱は終わるが、九州では以後も戦乱が続いた。応永4年/元中14年(1397年)、武朝と顕興は、九州探題と反目する少弐貞頼と組んで後征西将軍宮を再興しようとするが、大内義弘、大友親世に古麓城を攻められ、顕興の兵は霧散し、叶わなかった。
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南北朝動乱期
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南北朝期での一族は南朝方・北朝方に別れて戦った。1333年(正慶2年)には、桃井一族は新田義貞の鎌倉攻略戦に従軍したが、建武の新政崩壊後、武家方と宮方双方に分裂して南北朝動乱期を迎えた。特に武家方の桃井直常、直信兄弟は驍将として名を馳せた。越中国守護ともなった直常だったが、観応の擾乱時から足利直義・直冬勢の有力武将として常に尊氏に敵対していた為、直義敗北後は北朝・幕府に抵抗を続けつつも次第に衰退していった。
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