南北朝内乱期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 15:57 UTC 版)
詳細は「南北朝時代 (日本)」を参照 1333年の鎌倉幕府滅亡後に建武の新政を開始した後醍醐天皇は、優れた政治的才覚により種々の先進的な法令改革を行い、これらは後の室町幕府や南朝の政策・法制度の基礎となった。後醍醐(諱は「尊治」)は、北条氏の親族として鎌倉幕府で力のあった足利氏の当主である足利高氏に、「尊氏」の偏諱や鎮守府将軍(のち征東将軍)の地位を与えて重用し、建武政権の中枢に取り込んだ。こうした反面、相次ぐ北条氏残党の反乱や、恩賞に不満を持つ武士など、一定の火種はくすぶっていた。のち、北条時行による中先代の乱を鎮圧した尊氏は、独自の裁量で武士たちに恩賞を配りはじめた。これを自身への反乱と誤認した後醍醐天皇は、尊氏討伐を決め、建武の乱が発生した。1336年、建武の乱に勝利した尊氏は、持明院統の光明天皇を擁立し、幕府を開き、両統迭立を再開させた。同年末、後醍醐は京都を脱出して大和国の吉野に南朝を開いたことから、両統迭立ではなく南朝と北朝(持明院統)の内乱が長期にわたって繰り広げられることになった。この2年後、尊氏は北朝から征夷大将軍の宣下を受けた。 南朝方は楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら武将があいついで敗死し、1339年には後醍醐が没する。その後、顕家の父北畠親房が南朝を背負って立つが、各地の武士の勧誘も不調で、その勢力は河内の楠木正行、九州の懐良親王などわずかなものとなった。1348年には正行が高師直率いる幕府軍に敗死。師直は吉野の行宮を焼き払い、南朝はさらに奥地の賀名生に逼塞する事態となる。 ここに内乱の帰趨は決したかに見えたが、幕府では翌1349年に政務を執ってきた尊氏の弟で保守派の直義と革新派の執事高師直の対立が起こり、やがて守護や諸国の国人が尊氏・師直派と直義派の二派に分かれる全国規模の抗争に発展する(観応の擾乱)。当初は直義が優位に立ち、師直は1351年に直義派の上杉重季によって殺害される。しかしその後、尊氏が直義派の切り崩しを行ったことにより形勢が逆転し、翌1352年に直義は伊豆で降伏。浄妙寺境内の延福寺に幽閉され、その後急死した。その後も争乱は続き、南軍は京都に侵攻して北朝の崇光天皇を廃立し、光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致している。九州や中国地方では直義の養子である直冬が勢力を拡大し、山陰の山名氏とともに京都に攻め上るなど、反幕府方の抵抗が続いた。
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