南北朝合一以降
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楠木氏の一族はほとんどが南朝方についた。そのため、南朝の衰退と共に一族も没落した。南北朝合一後に後南朝の武将としても楠木正秀や楠木光正ら楠木氏一族が確認できる。北朝を擁立した足利幕府の時代に朝廷(北朝)に仇をなしたとして逆賊として扱われていた。寛正元年(1460年)3月28日に楠木氏の一族(正儀の孫とされる)が六条河原にて処刑された際に東福寺の大極正易はその日記(『碧山日録』)に楠木氏は無辜の民を戮殺した積悪の報によって滅びたと記している。 ところが、『太平記』の流布によって正成に対する同情的な見方が広がった戦国時代には楠木正成の末裔と自称する楠木正虎なる人物が現れ、逆賊扱いであった楠木氏の名誉回復のために、朝廷や松永久秀に援助を求めて名誉回復に尽力した。その結果、永禄2年(1559年)11月20日に楠木氏は正親町天皇より朝敵の赦免を受けることになった。後に正虎は能書家として織田信長や豊臣秀吉からも重用された。もっとも、正虎の家系は北畠氏に仕えた伊勢の国人・楠(くす)氏(伊勢諏訪氏)の末裔が河内に移住して正成の末裔を名乗ったもので、正成との血縁関係はないとも言われている。 俗説では、江戸時代に慶安の変を起こした由井正雪が正虎の子孫という楠木不伝に軍学を学び、その養子となったというが、これは実録本『慶安太平記』などの脚色である。 南朝が正統な朝廷とする史観が定着すると、楠木正成や楠木氏は忠臣の代表として賞賛され、顕彰されるようになる。しかし嫡流がはっきりせず、同じく南朝方の武将だった菊池氏や名和氏などの子孫が華族に列したのに対し、楠木氏の子孫からは華族は生まれていない。ただし、傍系であれば華族になった者はおり、伊勢楠木氏庶流木俣氏が井伊家家老を代々務めた氏族のため、男爵に叙されている。もっとも、木俣氏中興の祖である木俣守勝には実子が無く、養子の守安が木俣氏当主を継いだため、現在の木俣氏宗家は楠木氏と血筋上の繋がりは無い。 1937年(昭和12年)5月25日に、楠木氏子孫によって、湊川神社内に楠木同族会が結成された。初代会長は伊勢楠木氏末裔の山下太郎である。
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