南北朝合一以降とは? わかりやすく解説

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南北朝合一以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:24 UTC 版)

楠木氏」の記事における「南北朝合一以降」の解説

楠木氏一族はほとんどが南朝方についた。そのため、南朝衰退と共に一族没落した南北朝合一後に後南朝武将として楠木正秀楠木光正楠木氏一族確認できる北朝擁立した足利幕府時代朝廷北朝)に仇をなしたとして逆賊として扱われていた。寛正元年1460年3月28日楠木氏一族(正儀の孫とされる)が六条河原にて処刑された際に東福寺の大正易はその日記(『碧山日録』)に楠木氏無辜の民を戮殺した積悪の報によって滅びた記している。 ところが、『太平記』流布によって正成に対す同情的な見方広がった戦国時代には楠木正成末裔自称する楠木正虎なる人物現れ逆賊扱いであった楠木氏の名誉回復のために、朝廷松永久秀援助求めて名誉回復尽力したその結果永禄2年1559年11月20日楠木氏正親町天皇より朝敵赦免を受けることになった。後に正虎は能書家として織田信長豊臣秀吉からも重用された。もっとも、正虎の家系北畠氏仕えた伊勢の国人・(くす)氏(伊勢諏訪氏)の末裔河内移住して正成の末裔名乗ったもので、正成との血縁関係はないとも言われている。 俗説では、江戸時代慶安の変起こした由井正雪が正虎の子孫という楠木不伝軍学学び、その養子となったというが、これは実録本『慶安太平記』などの脚色である。 南朝正統朝廷とする史観定着すると、楠木正成楠木氏忠臣代表として賞賛され、顕彰されるようになる。しかし嫡流はっきりせず同じく南朝方の武将だった菊池氏名和氏などの子孫が華族列したのに対し楠木氏の子孫からは華族生まれていない。ただし、傍系であれば華族になった者はおり、伊勢楠木氏庶流木俣氏井伊家家老代々務めた氏族のため、男爵叙されている。もっとも、木俣氏中興の祖である木俣守勝には実子無く養子の守安が木俣氏当主継いだため、現在の木俣氏宗家楠木氏血筋上の繋がりは無い。 1937年昭和12年5月25日に、楠木氏子孫によって、湊川神社内に楠木同族会が結成された。初代会長伊勢楠木氏末裔山下太郎である。

※この「南北朝合一以降」の解説は、「楠木氏」の解説の一部です。
「南北朝合一以降」を含む「楠木氏」の記事については、「楠木氏」の概要を参照ください。

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