伊勢諏訪氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 01:13 UTC 版)
「北勢四十八家#楠家」も参照 伊勢諏訪氏は、南北朝時代、伊勢国司北畠氏の被官だった諏訪貞信(俗称「楠(くす)十郎」)を祖とする支族。伊勢北部(現在の三重県)の土豪、北勢四十八家の一つ。正平24年(1369年)から応永19年(1412年)まで、約50年間3代続いた。第二代からは中島氏を名乗った。楠(くす、現在の三重県四日市市楠町)の地の城主だったため、俗に楠氏(読みは「くす」氏)とも呼ばれるが、これは俗称であって当主たちが自ら楠氏を名乗った事実はない。初代の貞信に楠木正成の落とし子伝説があること、伊勢諏訪氏滅亡後の楠城主の後任として本物の楠(くすのき)氏である伊勢楠木氏が来ること、伊勢楠木氏の楠木正威が第3代当主貞則の養嗣だったこと、等々があって非常に紛らわしいが、クス氏とクスノキ氏は全く別の氏族である。 初代当主は諏訪貞信、通称を十郎。俗に楠十郎ともいう。延元2年(1337年)1月25日生。当時、南朝方の宗良親王が信濃国大河原(現在の長野県大鹿村)を拠点としており、大河原を交通の要衝として伊勢と諏訪の南朝勢力は結びつきが強く、貞信もまた南朝の志士として活動を行っていた。正平24年(1369年)9月、北朝の武将土岐頼康が伊勢に侵攻したため、国司北畠顕能は、次男の顕泰率いる5000騎で迎撃しこれを退け、逆に北朝方の手にあった北勢の諸城を攻略した。同年10月、顕能は防備を固めるために攻略したばかりの諸城を再編成し、その一つ楠山城(くすやまじょう)あるいは楠城(くすじょう)を、手勢300と共に諏訪貞信に与えて、北朝勢力に対する守りとした。応永3年(1396年)2月24日没、菩提寺は現在の四日市市楠町本郷の正覚寺。正室は伊勢矢田氏当主で山田城の城主だった矢田蔵人入道の娘で、応永10年(1410年)10月没。なお、楠町に住む貞信子孫と称する家系の言い伝えでは、楠木正成が延元元年(1336年)5月25日湊川の戦いで討死した後、妾の政野が名草道斎という医師の助けで諏訪に落ち延びて、同年10月15日に生んだ子とされるが、同時代に伊勢諏訪氏が楠氏を称したことはなく、後世の創作である。 第二代は諏訪貞益(後に中島貞益)、通称を七郎左衛門。貞信の子。北畠顕泰から中島四郷(現在の三重県四日市市楠町本郷)を賜り、中島を本貫として諏訪氏から中島氏に改名した。応永6年(1399年)の応永の乱に参戦後、北畠の命令に背いて伊勢に戻らず京都に駐留し続けて、北朝に直接仕えた。激怒した北畠氏に城主を解任され、弟の貞則に家督は移った。貞則の自死後、応永23年(1416年)5月17日に没。 第三代は中島貞則、通称を九郎左衛門。応永6年(1399年)に伊勢を捨てた兄に代わって楠山城となったが、やはり応永19年(1412年)9月に国を出奔して京都に移住している。ここに至って北畠満雅は完全に中島氏を見限り、貞則を除封して二度と中島氏を楠山城に入れることはなく、応永17年(1410年)に満雅の命令で貞則の養嗣となっていた楠木正威(楠正威)を次代の城主とした。自責の念を感じたのか、貞則は応永21年(1414年)6月8日に京都油小路の屋敷で自死した。墓は京都府京都市左京区黒谷町にある(金戒光明寺のことか?)。 伊勢諏訪氏(伊勢中島氏)の滅亡後、楠山城(楠城)の城主の四代目以降の地位は、楠木氏の嫡流である伊勢楠木氏に移ることになる。 楠城主としての諏訪氏(中島氏)は滅亡したが、楠町の旧家である楠町本郷の中島家と岡田家が中島氏子孫を称している。また、楠町北五味塚の富田家(松平定信が桑名藩主だった頃に下手代を担った家柄)も、諏訪貞信の遠い親族(先祖の一人が楠貞孝郷という人物の伯母婿)であると称している。富田家の伝承では、諏訪貞信の六代または七代の子孫に楠貞孝郷(通称を十郎)という者がいて、滝川豊前守(滝川忠征)の婿となったが、天正壬午(つまり天正10年、1582年)3月2日、羽柴秀吉との戦いで、尾張戸田城籠城中に数え16歳にして戦死し、これが楠(くす)氏の本当の最期なのだという。滝川忠征と羽柴秀吉の戦いは天正11年(1583年)なので、年が1年合わないが、干支の書き間違いか。
※この「伊勢諏訪氏」の解説は、「諏訪氏」の解説の一部です。
「伊勢諏訪氏」を含む「諏訪氏」の記事については、「諏訪氏」の概要を参照ください。
- 伊勢諏訪氏のページへのリンク