伊勢楠木氏初代当主として
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「楠木正顕」の記事における「伊勢楠木氏初代当主として」の解説
伊勢に移って後、正重、正理、正威ら三子を儲けた。 南朝崩壊後も、楠木氏と旧南朝皇族は繋がりがあったらしい。応永14年(1407年)4月17日には、旧南朝皇子で臨済宗の禅僧海門承朝が、13年前に崩御した父・長慶天皇の遺命として、内山光賢という僧を、楠木氏の菩提寺観心寺の座主職に任じている(大日本史古文書『観心寺文書』146号)。 応永17年(1410年)11月、京都での経済的窮乏に直面した後亀山天皇が、旧南朝の本拠地吉野に逃れる。 応永19年(1412年)10月、伊勢の楠(くす)城(現在の三重県四日市市楠町)の城主、中島氏(伊勢諏訪氏)が北畠家に背いて除封され、替わって中島氏の養嗣子となっていた三男の正威が楠城城主となったが、正威はまだ数え5歳という子供だったため、実父の正盛(正顕)が応永31年(1424年)まで楠城の城代を務めた(『(旧)楠町史』所収版の『全休庵楠系図』)。 応永22年(1415年)春、幕府の旧南朝皇族への扱いを不服とした伊勢国司北畠満雅(顕泰の長男)が反乱を起こす。同年7月ごろ、満雅に呼応して楠木氏と同族河内和田氏も決起し、大和国宇智郡河内(現在の奈良県五條市 西河内町?)に進軍して家々を焼き払うが、畠山氏の軍に敗北し、首級4つが桂川で見せしめにされる(『満済准后日記』応永22年7月24日条および大和興福寺関係文書『寺門事条々聞書』)。同年10月、北畠家と幕府が和睦し、翌23年9月には後亀山院も京都嵯峨に帰還する。 あるとき、北畠家の大河内顕雅(伊勢国司満雅の弟)から偏諱を受け、正盛から正顕へ改名した(『全休庵楠系図』)。いつごろかは不明だが、正長元年(1428年)12月21日に満雅が死去し、顕雅が甥の幼当主北畠教具を補佐して実質上の北畠家当主となっていた時期が候補として考えられる。偏諱は普通、一つ目の文字に使用すべきところ、二つ目の文字に使用しているのがやや不可解である。 永享元年(1429年)9月、南都に潜伏していた一族の楠木光正が、将軍足利義政(同月22日に南都参詣する予定だった)への暗殺を計画していたとして逮捕され、18日に京都へ送られる。24日、六条河原で斬首。このとき辞世の句として漢詩と和歌を書き記し、天下の美談となった、と伏見宮貞成親王は評している(『看聞日記』永享元年9月条)。 永享9年(1437年)7月11日、大覚寺門主義昭(3代将軍義満の子)が逐電し、行方不明になる。同年8月初頭、一族の武将が河内国森口城(現在の大阪府守口市)を攻め落として立てこもったが、義昭の逐電と何か関係した動きだったのではないかと言われている。8月3月、森口城を占拠していた楠木兄弟が討死し、この時は光正の時とは違い、「朝敵悉滅亡天下大慶、珍重無極、公方御悦喜、御快然」と伏見宮貞成親王たちからその死を喜ばれて酒宴が開かれている(『看聞日記』『薩戒記』)。余談だが、伏見宮貞成親王は永享元年(1429年)には「くすのき」を「楠木」と書くのに、永享9年(1437年)には「楠」と書いており、『太平記』などに影響されて漢字表記が変化していく過程を読み取ることができる。 永享10年(1438年)11月死去(『全休庵楠系図』)。当主の地位を、桑名の村正に師事し刀工となっていた長子正重が継いだ(『全休庵楠系図』)。
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