伊勢氏の相模進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 07:39 UTC 版)
その後、上杉定正の死後に家督を継いだ朝良 (道寸の従兄弟)と和睦して、台頭してきた安房国の里見氏と同盟を結んだ。 同時期の明応4年(1495年)、西相模を抑えていた小田原城の大森藤頼(道寸の母方の叔父にあたる)が、駿河今川氏の軍師・伊勢宗瑞(北条早雲)によって城を奪われた(ただし、その年次については明応5年(1496年)以後とする異説あり。また、藤頼が山内上杉家の上杉顕定に降ったため、宗瑞に攻撃させたという説もある)。宗瑞は伊豆国と小田原を本拠に、次第に独立して戦国大名化し、関東へ本格的に進出を始める。道寸は藤頼を保護してこれと争うが、宗瑞は山内上杉家と対抗するために明応7年(1498年)、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案する。話し合いの結果、顕定が守護職であった伊豆を二分(宗瑞が伊豆半島を、道寸が伊豆諸島を領有)する事で和解が成立した。 その後、宗瑞と朝良は上杉顕定を立河原の戦いで破ったが、やがて両者は対立するようになり、必然的に扇谷上杉家傘下の三浦氏とも対立することになる。これに対して義同は永正7年(1510年)に小田原城を攻め、逆に宗瑞も岡崎城に攻撃を加えた。
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