志士としてとは? わかりやすく解説

志士として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 03:42 UTC 版)

海江田信義」の記事における「志士として」の解説

尊王志高江戸で小石川水戸藩邸に出入りし水戸の両田として名高い藤田東湖戸田忠太夫師事し尊王論学んだ。特に藤田には目をかけられ和漢の書に親し傍ら西郷藤田引き合わせている。大老井伊直弼による安政の大獄が始まると、俊斎も尊王志士みなされ追われ安政5年1858年)、西郷と共に僧侶月照保護して帰国その後大久保利通在藩の「精忠組」各士、脱藩突出」して関白九条尚忠京都所司代酒井忠義暗殺することを計画するも、藩に知られるところとなり、藩主島津茂久後見役島津久光)から、彼らを「精忠の士」と認めたうえで軽挙妄動諌める親書受けたことにより、「突出」は中止となり、以降藩政に従うこととなる。ただ、攘夷派に対す慰撫すべての藩士にいきわたらず万延元年1860年)、三弟・有村次左衛門井伊直弼桜田門外にて水戸浪士とともに襲撃桜田門外の変)し自刃また、水戸浪士行動を共にしていた次弟の雄助は、幕府遠慮した藩の意向で、鹿児島にて母、大久保利通精忠組面々立ち会いの下、自害している。 文久元年1861年12月日下部伊三治安政の大獄捕縛され獄死)の次女・まつを娶り、同時に婿養子となって海江田武次信義改名海江田日下部旧姓)。日下部家後を継ぐ予定の弟有村次左衛門死後その義理日下部家を継ぐことになった。ただし、しばしば以後有村俊斎の名も使った文久2年1862年)、島津久光に従って護衛1人として上洛したが、その道中で知った西郷京都での動静久光伝えて激怒させてしまい、心ならずも西郷失脚させる原因作った寺田屋騒動では奈良原繁と共に有馬新七藩士説得命じられる失敗鎮撫使には加わっていない。さらに久光帰路にも同行し8月21日1862年9月14日)、生麦事件において久光行列遮って斬られ瀕死となっていたイギリス人チャールス・リチャードソン止め刺した

※この「志士として」の解説は、「海江田信義」の解説の一部です。
「志士として」を含む「海江田信義」の記事については、「海江田信義」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「志士として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「志士として」の関連用語

志士としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



志士としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの海江田信義 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS