志士時代とは? わかりやすく解説

志士時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 16:34 UTC 版)

平野国臣」の記事における「志士時代」の解説

安政5年1858年6月島津斉彬の率兵上洛情報北条右門から入り、国臣は菊池武時碑文建立願い名目上京。ところが7月に斉彬は急死し、率兵上洛立ち消えとなった。国臣は京で北条右門通じて斉彬の側近だった西郷隆盛知り合い善後策協議公家への運動担当することになった。国臣の志士活動はじまりである。その後、国臣は藩主への歎願のために福岡へ戻る。 結局西郷たちの工作失敗し幕府から逮捕命令出され勤王僧・月照薩摩逃そうとするが、藩情が一変して難航筑前で国臣は月照たちと合流し、供となって薩摩向かった。国臣と月照山伏変装して関所突破し11月にようやく鹿児島入った藩庁西郷月照幕吏引き渡すべく、東目日向国)への連行命じる。暗に斬れという命令であった西郷月照、国臣とともに船を出し前途悲観して月照とともに入水してしまう。月照水死するが、西郷は国臣らに助け上げられた。国臣は追放され筑前帰った12月近衛家機密文書返すために再び京へ上る。京では安政の大獄の嵐が吹き荒れていたために、翌正月備中国連島隠れ住んだ同年12月下関豪商白石正一郎邸へ移る。ここで水戸藩士薩摩藩士と大老井伊直弼暗殺計画話し合った。翌安政6年1859年3月井伊大老暗殺の機が熟した感じた国臣は堀次郎とともに福岡戻り藩主黒田斉溥大老暗殺されれば大乱となるから薩摩藩との連携攘夷のための軍備充実求め建白書提出3月3日桜田門外の変起こり井伊直弼水戸藩士薩摩藩士によって暗殺された。 国臣は下関白石家一挙知り同志祝杯をあげた。一方福岡藩庁は驚愕し事前に井伊暗殺知っていた国臣の捕縛命じた。国臣は捕縛逃れるために逃避行出た薩摩入国しようとするが叶わず、9月肥後国高瀬松村家に庇護され、久留米勤王志士真木和泉国事談じる両者意気投合して翌年には国臣は真木の娘のお棹と恋仲になる。 村田新八有馬新七の手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父島津久光浪人を嫌い、精忠組大久保一蔵浪人とは一線を画す方針で、結局、国臣は退去させられることになった失望した国臣は「わが胸の 燃ゆ思いくらぶれば 煙はうすし 桜島山」と詠じている。

※この「志士時代」の解説は、「平野国臣」の解説の一部です。
「志士時代」を含む「平野国臣」の記事については、「平野国臣」の概要を参照ください。

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