志士時代
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安政5年(1858年)6月、島津斉彬の率兵上洛の情報が北条右門から入り、国臣は菊池武時碑文建立願いの名目で上京。ところが7月に斉彬は急死し、率兵上洛は立ち消えとなった。国臣は京で北条右門を通じて斉彬の側近だった西郷隆盛と知り合い、善後策を協議、公家への運動を担当することになった。国臣の志士活動のはじまりである。その後、国臣は藩主への歎願のために福岡へ戻る。 結局、西郷たちの工作は失敗し、幕府から逮捕命令が出された勤王僧・月照を薩摩へ逃そうとするが、藩情が一変して難航。筑前で国臣は月照たちと合流し、供となって薩摩へ向かった。国臣と月照は山伏に変装して、関所を突破し、11月にようやく鹿児島に入った。藩庁は西郷に月照を幕吏へ引き渡すべく、東目(日向国)への連行を命じる。暗に斬れという命令であった。西郷は月照、国臣とともに船を出し、前途を悲観して月照とともに入水してしまう。月照は水死するが、西郷は国臣らに助け上げられた。国臣は追放され筑前へ帰った。 12月に近衛家へ機密文書を返すために再び京へ上る。京では安政の大獄の嵐が吹き荒れていたために、翌正月に備中国連島へ隠れ住んだ。同年12月に下関の豪商・白石正一郎邸へ移る。ここで水戸藩士や薩摩藩士と大老・井伊直弼暗殺計画を話し合った。翌安政6年(1859年)3月、井伊大老暗殺の機が熟したと感じた国臣は堀次郎とともに福岡へ戻り、藩主・黒田斉溥へ大老が暗殺されれば大乱となるから薩摩藩との連携と攘夷のための軍備の充実を求める建白書を提出。3月3日に桜田門外の変が起こり、井伊直弼は水戸藩士と薩摩藩士によって暗殺された。 国臣は下関の白石家で一挙を知り、同志と祝杯をあげた。一方、福岡藩庁は驚愕し、事前に井伊暗殺を知っていた国臣の捕縛を命じた。国臣は捕縛を逃れるために逃避行に出た。薩摩へ入国しようとするが叶わず、9月に肥後国高瀬の松村家に庇護され、久留米の勤王志士・真木和泉と国事を談じる。両者は意気投合して、翌年には国臣は真木の娘のお棹と恋仲になる。 村田新八・有馬新七らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父・島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、結局、国臣は退去させられることになった。失望した国臣は「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」と詠じている。
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